皇朝十二銭

 ● 和同開珎の発行 
皇朝十二銭の重さと成分の概略値。(大きなばらつきがある)
 慶雲5年(708)、武蔵秩父で銅が発見されたのと知らせがあり、朝廷ではこれを吉祥とし、年号を「和銅」と改元。 折から律令国家の整備、新都の造営などを計画していた朝廷、その財源として、かねてから計画していたわが国初の銭「和同開珎」を発行します。
 製造原価を大幅に上回る値段に設定しますから、朝廷にとっては大きな収入になります。 しかし、布(麻・絹)や稲・米を通貨代わりにしていた時代で、国民は素直に使い始められません。

 ● 流通促進策 
 朝廷は、あの手この手で貨幣の流通を促進します。 和銅4~6年にかけて、次々と策を実施します。
   ・和銅4年、貴族・官吏への俸給一部を銭とする。
   ・和銅4年、銭を蓄えると位階を上げるとの令。いわゆる「蓄銭叙位の令」。
   ・和銅5年、地方官(郡司、少領)は6000枚以上を蓄銭しないと採用しないとの令。
   ・和銅5年、旅行者は銭を携帯するようにとの令。
   ・和銅5年、納税に銭を許すようにする。
   ・和銅6年、田地を売買するときは、必ず銭で行い、違反者はその田地を没収するとの令。
 一応、都やその周辺では銭を使う人も増え、東大寺の売買記録などでも、銭を使ったことが多く記されています。
No.1 和同開珎
模範にしたのは唐の「開元通宝」
24.3mm 2.1g
 ● 改鋳、改鋳、・・・ 
 天平宝字4年(760年)、時の権力者恵美押勝は、新たに金銭(開基勝宝)、銀銭(太平元宝)、銅銭(萬年通宝)を発行し、
     金銭1枚=銀銭10枚=新銭(萬年通宝)100枚=旧銭(和同開珎)1000枚
と定めます。 
 開基勝宝は現存32枚で、1枚は皇室、残りは東京博物館の所蔵です。 太平元宝は、これまで2枚があったそうですが、現在2枚とも行方不明。ともに貨幣として機能していたとは思えません。  ⇒東京国立博物館の「開基勝宝」
 新銭は、旧銭10枚分としたものの、わずかに大きいだけで、国民には不評でした。 そのため、旧銭10枚分以下の相場になってしまいトラブル頻発、12年後には同じ価値とする始末。
 この後、朝廷は20年くらいごとに改鋳を行いましたが、毎回同じようなことになっていたと想像されます。

No.2 万年通宝
琵琶湖の沖ノ島で出土
26.0mm 4.3g
No.3 神功開宝
皇朝銭の3番目
25.0mm 3.4g
 ● 問題点続出
 【ニセガネの多発】発行当初から贋金が多く、朝廷はたびたび、犯人には斬首などの厳しい対応をとりました。 しかし、贋金作りは後を絶たず、数百年にわたって何度も同じ禁令が出ています。 現存する皇朝銭は、ホンモノと当時のニセガネの区別がつきません。 それだけホンモノのできが悪かったということです。
 【貨幣の退蔵】貧富の差が大きかった時代です。 貴族や富裕層は、蓄財の手段として貨幣を退蔵します。 貨幣の流通が減少し、日常の商取引にも影響してきます。 ここで、朝廷は方針を変更し、798年に蓄銭を禁止し、800年には蓄銭叙位の令を廃止します。
 【銭の品質低下】銭は次第に軽くなり、鉛が多くなり、銭文が読みにくくなるなど、品質が悪くなります。 1字でも読めるものは銭として使え、との撰銭禁止令をたびたび出しました。

No.4 隆平永宝
24.5mm 3.6g
No.5 富寿神宝
少し小さくなる
22.9mm 3.5g
 ● 貨幣生産量の減少、需要も減少
 和同開珎から100年たっても、朝廷は銭による増収のうまみを捨てきれません。 しかし・・・
 【生産量の減少】銅の産出量が減少する一方、仏教の隆盛で仏像などに使う銅の消費量が増大し、鋳銭量が減ってゆきます。 9世紀になると年間11000貫の計画に対して、3500貫しか生産できないとの記録もあります。
 【需要の減少】大貴族や寺社の荘園がひろがりましたが、荘園は自給自足を基本とします。 当然、貨幣の必要性が薄れてゆきます。
 935年、土佐より帰国する紀貫之は日記の中で、銭を持たずに帰国すると書いています。 任地で蓄財して帰国する役人が多かった時代に、自身の清廉さを書いたのかも知れませんが、地方では銭を使う習慣がなくなっていたためではないでしょうか。

No.9 貞観永宝
だいぶ字が崩れている
18.8mm 2.6g
No.10 寛平大宝
粗製乱造のせいで粗悪で貧弱
17.5mm 0.8g
 ● 最後は神頼み
 958年、最後の皇朝銭「𠃵元大宝」が発行されます。 発行量は極めて少ないです。
 ついに、984年には銅銭が銅地金の重さで取引されるようになり、986年には「一切世俗銭を用いず」の情勢となります。
 987年、朝廷は諸寺に銭の流通を祈ります。 最後の神頼みのようでした。 1000年ころから、「銭」の記録はほとんど無くなりました。

No.11 延喜通宝
醍醐天皇の御筆と伝えられる
皇朝銭中現存量は最多
17.8mm 1.8g
No.12 𠃵元大宝
最後の皇朝銭
19.9mm  2.2g

 ● 皇朝銭の300年
 皇朝12銭300年の歴史年表です。  は皇朝12銭です。
 皇朝銭の時代の銭1文の価値を、当時のお米の値段で探ってみます。 お米1升は現代の4割(720cc)で、当時の大人1日分の食糧です。 黒米とは、籾のついたお米のこと。
 記録は、飢饉で高騰したときの数字が多いですから、平常時だと1升=5~10文だったと思われます。
 また、別の記録から、人足の日当=10文、下級役人の日当=25文くらいのことが多かったようです。 食糧を基準にすると、1文は100円くらい、労賃を基準にすると500円くらい ・・・ になります。

世紀皇朝銭の記事お米1升の値段関連記事
5世紀 486 「日本書記」によると、「顕宗天皇2年、天下平安、
  此登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文重ニ文目八分」
  ・・・史実とは思えない
6世紀
7世紀 670ころ 天智天皇のころ、無紋銀銭を使用した?
683 「日本書記」によると、天武天皇「白鳳十二年四月、詔書、
  自今後、用銅銭、莫用銀銭」
  ・・・これが、富本銭ではないかとの推測もある。
694/699? 初めて鋳銭司を置く。
(①②③・・・は、下記参考文献の番号) 607 小野妹子の遣隋使。
630 犬上御田鍬の遣唐使。
8世紀 708 1月武蔵国秩父で大量の自然銅が発見され、「和銅」と改元。
同年 2月催鋳銭司を設置。5月11日「和同開珎」銀銭を発行、
同年 8月10日「和同開珎」銅銭を発行。
709 1月銀銭の私鋳を禁止。8月銀銭の発行を停止。
710 9月銀銭の通用を停止。
711 12月蓄銭叙位の令。
○ このころ、私鋳銭造りが多く、犯人は斬首とする。
712 12月庸調の銭納を認める。
714 9月銭を択ることを禁止、違反者は杖100とする。
721 銀銭1を銅銭25に当てる。(翌年50に改訂)
722 調銭(税金の銭納)の制度始まる。
751 都の西南に橋を造るため、諸国より国の大きさに従って
  1~10貫文を出させる。
758 恵美押勝に鋳銭権が与えられる。
760 「萬年通宝」、「開基勝宝(金銭)」、
  「太平元宝(銀銭)」を発行。 
  金銭1=銀銭10、銀銭1=新銭10、新銭1=旧銭(和同銭)10
  とする。
765 「神功開宝」を発行。 このころ贋金作り多発する。
768 このころ蓄銭叙位の令で任官する人が最盛。
772 新銭旧銭の値を同一にする。
773 穀物騰貴により、常平法を定める。
796 「隆平永宝」を発行。
798 蓄銭の禁止。
800 蓄銭叙位の令の廃止。
711 「穀6升を以て銭1文に当て・・」
  (続日本紀)。(穀6升は白米3升に相当)
721 1文(都)③⑤
722 2文(都)③
736 10文(この年凶作)②③
738 「調銭567文稲70.85束」
  (和泉監正税帳)①⑤(米1升1.6文に相当)
751 5文(正倉院文書)①②③
758 粳米5.8~7.0(正倉院?の購入記録)④
760 白米4~6文(正倉院文書)④
762 白米6.5~7.4文、黒米5.5~6.0文
  (正倉院文書)⑥
同年 暮、白米11.0~11.1文、黒米9.2文、
  粳米12.3文(東大寺の購入記録)⑤
763 黒米7文(正倉院文書)⑥
764 10文。「是の年兵(いくさ;恵美押勝の乱)
  と旱(ひでり)相よりて、米石ごとに千銭」
  (続日本紀)
同年 正倉院文書によると、30文⑥
765 新銭で20文。諸国飢饉で米価高騰。
  新銭は神功開宝、
  旧銭(和同開珎、萬年通宝)はこの10倍。
  (続日本紀)
771 6~7文。(正倉院?の購入記録)④
701 大宝律令完成。
710 平城遷都。
729 長屋王の変。
757 橘諸兄が失脚し、藤原仲麻呂
  (恵美押勝)が政権を握る。
764 恵美押勝が失脚し、
  道鏡が政権を握る。
770 道鏡失脚。
784 長岡遷都。
794 平安遷都。
9世紀 802 上田1町の値段を4000文以下にせよとの詔を出す。
818 「富寿神宝」を発行。量目と品質は低下。
○ 年間の鋳造量は3500~11000貫で、総額10万貫前後と推定。
835(承和2年) 「承和昌宝」を発行。初めて年号を冠した銭銘。
○ 品質はさらに劣化。鋳造量は10万貫前後と推定。
848 「長年大宝」を発行。
859 「饒益神宝」を発行。
○ だんだん品質が劣化、できの悪い銭を嫌うのを禁止。
865 撰銭の禁止。
867 都に常平所を置き、穀価を調整する。
870 「貞観永宝」を発行。
890 「寛平大宝」を発行。
○ 鋳造量激減、一時期年間500貫になる。
849 白米26文、黒米18文。推定値①
866 白米40文、黒米30文(三大実録)。
  飢饉のため、政府が安価で販売したもの。
同年 東西津頭(難波津、大津)の実勢価格は、
  白米72文、黒米41文(三大実録)。
876 飢饉のため官米を8文で売る。
  市中相場は14文。
801 坂上田村麻呂の蝦夷平定。
820ころ~ 班田収受の制が崩れ、
  皇族・貴族・寺社の荘園化が
  進む。
859 藤原氏の摂関政治の開始。
894 遣唐使の廃止。
10世紀 907 「延喜通宝」を発行。
927 銭名が1字でも読めるものは通用しろ、との令(延喜式)。
939 藤原純友、周防の鋳銭司を焼き払う。
958 「𠃵元大宝」を発行。
984 銭が嫌われ、銅銭と銅が同じ値段になる。
986 ”一切世俗銭を用いず”(「本朝世紀」)の状態となる。
987 諸寺に銭貨の流通を祈る。
  検非違使をして銭貨通用を強制させる。
909 3文。「常平所の穀升別寛平銭3文に充つ」
  (扶桑略記)
939~942 「米の価格升別に新銭17,18文。
  頻年飢饉によってなり」(本朝世紀)
899~930 醍醐天皇の延喜の治。
935~941 承平天慶の乱。
その後 1761 摂津天王寺村にて、畑の中から無文銀銭約100枚が
  掘り出される。
1794 大和西大寺西塔跡にて、1枚の開基勝宝が堀出される。
1923 琵琶湖沖ノ島にて、4000枚余の和同開珎・萬年通宝、
  神功開宝が発見される。
1937 奈良西大寺畑山にて、林の中から31枚の開基勝宝が
  発見される。
1940 大津崇福寺にて、12枚の無文銀銭が発見される。
1997 大阪細工谷にて、和同開珎の枝銭が発見される。
1999 奈良飛鳥池にて、33点の富本銭が発見される。

参考文献:
  ①久光重平、「日本貨幣物語」、毎日新聞社、1976
  ②岡田稔、「銭の歴史」、大陸書房、1971
  ③「お金の百科事典」、歴史読本、1974
  ④「古代・中世都市生活史(物価)データベース」、国立歴史民族博物館
  ⑤澤田吾一、「奈良朝時代民政経済の数的研究」、富山房、昭和2
  ⑥青木和夫他校注、「新日本古典文学大系・続日本紀」、岩波書店、1989~98
  ⑦「新訂貨幣手帳」、ボナンザ、1982
  ⑧「日本の貨幣-収集の手引き-」、日本貨幣商協同組合、1998



      「和同開珎」とその実力


2007.3.13   2011.7.17  2018.1.26