明治人のみた欧米


 明治のはじめ、欧米の国状、社会、産業などを学習するため、政府の大調査団が派遣されました。
 右大臣岩倉具視を特命全権大使とする総勢50名です。
 参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文ら政府首脳の約半分が参加しています。 しかも、まる2年近くもです。
 金子堅太郎、中江兆民ら59名の留学生も同行しました。
 明治4(1871)年11月10日に、横浜港を出発し、アメリカ→イギリス→フランス→ベルギー→オランダ→ドイツ(プロシャ)→ロシア→デンマーク→スエーデン→北ドイツ(ハンブルグなど)→イタリア→オーストリア(ウィーン万博)→スイス→フランスを見聞し、スエズ、香港、長崎経由で、明治6(1873)年9月13日に横浜港に帰港しました。
 見聞した内容は、一行の久米邦武が『特命全権大使・米欧回覧実記』として残しています。
 テキストおよび図版は
    久米邦武編、田中彰校注、「特命全権大使・米欧回覧実記」、岩波文庫、1977~83
を使用しました。
  

  ●初めて見る外国
華盛頓(ワシントン)の市場
 現代人でも、はじめて外国に接すると感慨深いものですが、当時の人たちは、なお一層だったでしょう。 サンフランシスコについたときの感慨を次の様に書いています。 明治人の感慨は漢文調です。
 明治4(1871)年12月6日 晴
 此暁は、咫尺もわきまへぬ程の深霧にて、甲板の上はしずくをなすに至る。故に洋中にしばし船を止め、黎明を待にし、天明に霧もほのぼのに消れば、前に加利福尼(カリホルニヤ)の諸山顕れたり。やがて旭日昇り、・・・

  ●アメリカの小学校の先生の給料
 明治4年12月14日 晴
 夫よりリンコールン小学校に至る。此は市中童男の小学校中にて最大なるものなり。・・・
 総て教師21名、其中に教頭1名は男子にて、月俸175弗を給す。余の男教師は1名に月給125弗を給す。19名は女教師なり。其月俸は新進の者に50弗を給す。夫より学力と勲功とによりて、年々5弗乃至10弗を増加し、終に83弗に至る。時には100弗を給するに至るものありと。外に掃除飾付等の為めに学僕丁2人に月給60弗づつを給す。
 月給50ドル~100ドルというのは、かなり高い水準です。

  ●ロンドン近郊のビスケット工場
倫敦(ロンドン)近郊のビスケット工場
イギリス 1シリング銀貨 1870年発行
5.6552g 銀品位925
 明治5(1872)年10月25日 朝陰り昼より雨ふる
 ビスコイトは、二度焼煎餅の義にて、乾餅と訳す。西洋の風俗にて、食後喫茶、及び珈琲の時に用ふる。
 当邑の製作場は、パントレェー、及びパルマス父子の会社なり。パントレェー氏は、30年前まで、当邑の1寒民にて、家100金の資にも乏しく、此ビスコイトをやきて生計を営み、僅に職人34人を傭ふほどの、貧しき暮らしなりしに、・・・
 場内現にいるヽ所の職人2千23百人、1周日に給する所の傭直、1700磅(7500弗)、麦粉を用ひる、毎周日280磅入りの布袋、1600包、之を煉て乾餅となし、周年に収むる利益金35万弗、内20万弗はハントレェス氏収納し、15万弗をパルマス氏の所有となす。
 ビスケットを「二度焼煎餅」と説明しています。
 職人の1周日の給金は1人平均0.75ポンド=15シリングになります。 「1周日」とは1週間のことらしいです。

  ●ロシア皇帝の収入
聖彼得堡(セントペートルボルク)の街並み
ロシア 1ルーブル銀貨 1868年発行
20.73g 銀品位868
 ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見しました。 皇帝は、当時世界最大の富豪です。
 明治6(1873)年4月3日 薄陰
 午後11時、宮内省より6馬車1輌、4馬車4輌を差し、御者みな緋衣金飾の盛装をなし、宮内の長官より来り迎へ、皇帝の宮に至り、皇帝亜歴山大(アレクサンドル)第2世陛下に謁見し、略饌を賜ふ。
 露西亜皇帝は、欧州各国の帝王中に於て、最も豊富なる歳入を収める君なり。帝室の私有地は、全国耕作森林の3分の1にも及び、また細白里に金砿、及び諸砿山を有して、1歳に400万ルーブルの歳入を全く自俸となす。年年に国度より出す帝室の費用は、770万ルーブルにて、諸皇子の俸禄は此外にあり。
 総て皇族の所得は、245万磅(即ち1225万円なり)にて、其内より45万を以て、施済学校、劇場費に公気損するの外、200万磅は、全く所得す。
 墺地利帝の富侈なるも、其3分の1にすぎず、英国王の歳俸に比すれば、5倍の多きに及ぶ。
 日本の国家予算は、5000万円前後ですから、その4分の1にあたります。

  ●ウイーンの万国博覧会
維納(ウイーン)万国博覧会の日本会場
オーストリー 1フローリン銀貨 1861年発行
12.34g 銀品位900
 ウィーンで万国博覧会が開かれていました。 そこには、新進日本も出品していました。
 日本より神宮の模写を取建て、日本風の園池を修め、石塔石橋などをおき、其前に檜杉の材にて、古京葺の廨舎(ながや)を建て、市肆となして、種種の小貨を売る。其評判甚だ高く、日本大工の技術に敏練なるは、墺帝も大に賞嗟し、杉材は欧州人の始めてみるもの、みな香木と称して、鉋屑を乞ふて去るもの多し。
 日日に其店につきて、物を買ふもの蟻集し、雑沓絶へず。此にて売出したるは、絹帛の小切れ、団扇、扇子、漆器、陶器、銅器なりしに、尤も多く売れたるは、小切れと扇子にて維納の人気、此場に入りて、日本の物品を買て帰らざれば、人に対して緊要の珍を遺却せる如き思ひをなし、競ふて群り来り、其鬧(にぎは)ひ一方ならず。

  ●欧米の通貨制度
日本 1円金貨 1871年発行
1.67g 金品位900
 英国の磅(ポンドステルリンク)は、其20シルリンクにて、仏の25フランク、米の5弗なり。
 我新貨5円に比較したれども、大抵横浜及び桑港(サンフランシスコ)にて、4円56拾銭の価に交換すれば、我5円の10分の9と概算すべし。
 この文章を単純に読むと、「1ポンド=5円と思ったが1ポンド=4.5~4.6円だった」と読めそうですが、これでは円を過大評価したことになります。「5円は、4.5~4.6円分のポンドだった」と読むべきでしょう。そう解釈すると、「1ポンド=5.4~5.5円」になります。
 1シルリンクは、我旧貨の銀1分なり。
 仏の1フランクは、新貨の20銭相場に較す。平均相場にては、旧貨の3朱なり。
 明治3年から、日本の貨幣単位は円・銭になりましたが、まだ旧時代の単位にも親しみがあったのでしょう、「銀1分」、「3朱」の表現をしています。 もっとも「銀1分」は「金1分」または「一分銀」の間違いではないでしょうか、それとも当時このような表現があったのでしょうか。

 使節団が記録している諸国の通貨制度と交換レートをまとめると、次の表のようになりました。
首 都人 口元 首通貨制度欧米の交換レート日本円
米利堅合衆国華盛頓(ワシントン)3888万人グラント大統領1弗(ドルラル)=100セント[英]1/5ポンド1円
英吉利倫敦(ロンドン)3182万人ヴィクトーリヤ1磅(ポンドステレリンク)
=20リルリンク=240ペンス
[仏]25フランク
[米]5ドル
4円88銭
仏朗西巴黎(パリ)3819万人 1フランク=100サンチーム[英]1/25ポンド19銭
白耳義(ベルギー)ブロッセル509万人 フランスに同じ  
荷蘭侘(ホルランド)海牙(ハーヘ)386万人 1フロレン(ギュルデン)=100セント[英]1/12ポンド40銭
普魯士(プロイス)伯林(ベルリン)2469万人維廉(ウリヤム)1ターラー=30コロセン[英]3/20ポンド弱68銭*
1マーク=10コロセン[英]1/20ポンド弱24銭
露西亜聖彼得堡
(セントペートルボルク)
8193万人亜歴山大第2世
(アレクサンドル)
1ルーブル=100コーヒキ[英]4/25ポンド80銭
北日耳曼
(北ゼルマン)
(ハムベルヒなど)  1マルクバンコ=16シルリンク=192ペヒー[普]1/2ターラー 
1マルクコーラン[普]3/5ターラー 
南日耳曼
(南ゼルマン)
(バイエルンなど)  1フロレン=60コローセル[仏]2.15フランク 
嗹馬(デンマルク)コッペンハーケン178万人 1リクスダーラー[普]2/5ターラー52銭*?
瑞典(スウエウデン)ストックホルム425万人 1リクスダーラー(グローネル)=100オーラーニ[嗹]2ドルラル26銭*?
那威(ノルウエー)   1ダーラー(グロネル)=120シキルリング[嗹]2ドルラル1円03銭*
以太利羅馬(ローマ)2641万人 1リーラー[仏]1フランク19銭
墺地利(オーストリー)維納(ウイーン)3563万人フランシス・ショーセフ1フロレン(ギュルデン)=100クライツル[普]2/3ターラー46銭*
瑞士(スイス)ベロン267万人 フランスに同じ  
西班牙 1673万人    
葡萄牙 436万人    
英領印度   1ルーピー=16アンナ=64ピース[英]1/10ポンド44銭*

ドイツ 10マルク金貨 1873年発行
3.982g 金品位900
 (日本円への換算値は別の資料からのものです。通常は金貨ベース、*は銀貨ベースでの値です。?は「米欧回覧実記」の記述と一致しないものです。)
 「日耳曼(ゼルマン)」とは、German、つまりドイツのことです。 当時、プロシャとオーストリーの2大王国のはざまで、多くの小国家があり、それぞれの国が独自の貨幣制度を持っていました。
 オーストリアを除くドイツが、プロシャ王のもとに統一されたのは、1871年1月のことでした。 このときこれまでの貨幣単位THALERをMARKに変更しました。 しかし、まだ政治的統一の端緒で、通貨は旧態のままでした。
 日耳曼(ゼルマン)地方に於て、貨幣の錯雑なることも、此辺殊に甚し。嗹馬(デンマルク)のリクスターラー、リュベックのマーク、及び日耳曼(ゼルマン)のターラー、梅格稜堡(メクレンボルヒ)のターラー、或はブレメンのターラーなどと、僅の地を隔てて、通用貨幣を異にすれば、行旅計算に苦しむ。

  ●紙幣の価値
アメリカ 15セント紙幣 1863年発行
89×49mm 南北戦争時の小さな紙幣です(原寸大)
 欧米諸国でも紙幣は決して金貨・銀貨と同価値ではなかったようです。
 (米国は)南北戦争のとき、政府の財用空竭せるを以て、紙幣を流布す。紙幣の額過多なるを以て、其価下落し、我一行華盛頓(ワシントン)府に着せし此には、約10分の9を相場とし、・・・・
 (露西亜は)紙幣を発行するに定限なく、人民の信用を失ひしは、欧州列国中に、露西亜国を最なりとす。政府より紙幣強圧の令を発して、厳に金貨1枚を5ルーブル15コピーキにて流通せしむれども、正金銀と紙幣との差は、1割より2割2分までの減を生じ、英国貨幣の如きは、甚だしき騰貴をなし、聖彼得堡(セントペテルスブルク)の物資、騰涌せること非常なり。
 (英国の)紙幣は、倫敦の英倫銀行にて印刷し出す。最小なるは5ポンドに止る。規則甚だ厳正なるを以て、流通甚だ宜し。・・・各国を回りて、紙幣の相場、原価より高価にて交換をなすは、唯英国あるのみ。

  ●欧米の労働者の賃金
場 所職 業給 金円換算(月)
アメリカサンフランシスコの小学校教頭月 175ドル175円
教師(男)月 125ドル125円
教師(女)月 50~83ドル50~83円
学僕丁月 60ドル60円
イギリスロンドン近郊のビスケット工場職人周日 0.75ポンド15円
ベルギーハンプトン氏の綿花紡績工場職人(男)周日 15フランク12円
職人(女)男の半分6円
カントスランバー氏のガラス工場職人月 500フランク95円
筒を吹く職人月 1200フランク228円
オランダマーシバッペー社(造船工場)職人日 2.5~4ギュルデン25~40円
プロシャベルリンの大病院看病人年 80ターラー5円
ベルリン近くの陶器工場職人月 35ターラー以上24円~
画工月 200ターラー136円
オーストリアウィーンの戎服仕立工場上級職人周日 20フロレン38円
中級職人周日 10フロレン19円
一般職人周日 5フロレン10円
ロシアぺテルスブルクの造幣寮職人月 17~35ルーブル14~28円
ぺテルスブルクの紙幣寮子供月 5ルーブル4円
最高級の技術者月 500ルーブル400円
コルヒサの製鉄所職人日 0.5~30ルーブル10~600円
ぺテルスブルクの育嬰院乳母月 9ルーブル(食事つき)7円
ぺテルスブルクの軍服裁縫場職人日 0.65~0.7ルーブル13~14円
オブスュース氏の製鉄場職人日 0.5~1ルーブル10~20円
スウェーデンラシャ製造工場職人周日 15リクスダーラー16円
ベルグサンスの造船所職人日 1.5リクスダーラー10円
リクメンの木材製造場職人日 1~1.5リクスダーラー7~10円
中国揚子口の造船場職人周日 1.25~6元(ドル)5~25円
 アメリカの小学校の先生たちや、イギリスのビスケット工場の職人さんたちの賃金は前に書きましたが、その他にも列国の工場労働者の賃金が書かれています。
 比較しやすいように、当時の交換レートから、1ケ月あたりの日本の円に換算してみました。 ここでは、1ケ月=25日、1周(週)=6日で計算しました。 アメリカの小学校の先生の給料が異常に高いのですが、理由は不明です。
 なおこのころの日本の庶民(大工さん、巡査さんなど)の1ケ月の賃金は、5~10円程度でした。

2004.9.4  2006.12.25 日本円への換算を訂正