半 両 銭

① 秦の大半両 7.3g 36mm  面/背/斜め

  ● 秦の半両
 
狭穿半両 17.1g 34mm
有輪半両 10.0g 35.3mm
④ 5.0g 24.6mm
 戦国時代の秦は、孝公12年(350BC)、貨幣単位に「両銖制」を採用します。 1両=24銖=15.6gを基本単位とするものです。
 その後、恵文王2年(BC336or335)に「半両銭」を発行したと伝えられています。
 秦の始皇帝は、戦国を統一すると、貨幣もこの「半両銭」に統一しました。 BC221のことです。
 ①~④はこのころの半両銭と思われるものです。 横からみると、半と両の字が、平地に横たわる山脈のように見える堂々としたデザインです。
 書体・大きさ・重さ・その他の作り方などでこれらの発行時期を推定する研究がありますが、ここでは代表的なものを並べるだけにしておきます。


   孝公(361-338BC)─恵文王(337-331)─○─○─○─始皇帝・政(246-210)┬二世皇帝・胡亥(210-207)    
                                    └○─子嬰(207)
 

 この当時、穀物1石(1せき=約20リットル)が30銭前後だったそうです。 1銭がこの半両1枚と考えられています。 穀物とは、華北では禾(あわ)が主たるもので、それに黍(きび)、大麦、小麦などが加わります(稲は南方のもので、稲が華北に普及したのは宋代以降です)。
 穀物は殻付きのもので、殻を取るとその半分になります。
 成人男子1人は、1日に2/3斗(=2銭)を必要としたらしいですから、これを現代の1000円とすると、1銭(=半両銭1枚)は現代の500円ということになります。

 
⑤秦末・漢初 私鋳半両
1.2g 17.8mm
楡莢半両
0.3g 17.5mm
楡莢半両
0.4g 13.4mm
⑧漢初 小半両
0.2g 10.8mm
  ● 秦末・漢初期の楡莢半両、小半両
 始皇帝が死んだ後も、二世皇帝が発行を続けたといわれています。 また、政治の乱れに乗じて、民間での私鋳が盛んに行われ、品質が著しく低下しました。
 漢の建国者高祖(劉邦)は、貨幣の鋳造を民間に任せました。 劉邦は政治的には卓越した才能を持っていましたが、経済政策は素人で、またあまり関心もなかったようでした。

  アキニレの実
薄くて軽く、木枯らしに乗って飛散する。
写真は「奈良教育大学の植物図鑑」
より、許可を得てお借りしました。
 そのため、規定の重さを満たさない小さなものが氾濫し、楡(にれ)の実の莢(さや)に似ているからと、「楡莢(ゆきょう)半両」と名づけられています。
 このころ、相次ぐ戦乱、大飢饉と、このような品質の悪い貨幣の横行で、30銭くらいだった穀物1石(1せき=約20リットル)が、5000~10000銭にまでインフレになったといわれています。


  ①高祖・劉邦(206-195BC)┬②恵帝(195-188)┬③少帝恭(188-184)
   │          │        └④少帝弘(184-180)
   呂后         └⑤文帝(180-157)─⑥景帝(157-141)─⑦武帝(141-87)  
 

  ● 漢の半両
八銖半両 3.3g 31.0mm
六銖半両 5.0g 27.7mm
四銖半両 3.1g 24.0mm
 劉邦の奥さんの呂后が治世2年(BC186)、八銖銭を発行したとの記録があります。 漢が正式に発行した最初の貨幣です。 「八銖半両」と呼ばれています。
 文帝5年(BC175)には、より軽くした「四銖半両」が発行されています。
 また、「八銖半両」と「四銖半両」の中間くらいの半両銭があり、日本ではこれを「六銖半両」と呼んでいます。

四銖半両の鋳型
(貨幣博物館にて 2007.12)

  ● 半両銭の終り
 武帝元狩4年(BC119)、半両銭に代わり「五銖銭」の鋳造が開始されました。 半両銭の時代はこれで終わりました。

  ● 【参考】 現代の半両
特大半両 27.8g 44mm
極小半両 0.07g 5.25mm
 無茶苦茶でっかい半両と、無茶苦茶ちっこい半両です。
 特大半両は、規定の重さの4倍もあります。 一方極小半両はわずか0.07gです。 拡大するとやっと半両の文字が確認できます。
 ともに、現代の作銭です。 大きい方は、全く同じ作りのものが複数枚あったことで現代のものと確認されました(秦代のものなら、どの二つをとってもどこか違うものです)。 小さいほうの材質は銅ではなく鉛でした。


● 秦の法律
盗んだものの価値刑罰備考
1銭未満労役30日 
1銭以上、22銭未満罰金5000銭罰金が支払えないと労働で支払う
22銭以上、110銭未満罰金1~2万銭最高は4万銭との説もある
110銭以上、220銭未満軽い労役決して軽くない
220銭以上、660銭未満重い労役ほぼ終身刑か
660銭以上額に入墨の上、重い労役奴隷なみの扱い
 秦は法治国家として有名です。 盗んだ物の価値によって、刑の重さが決まっていました(1銭は半両銭1枚です)。
 罰金が支払えないときは1日8銭(食事つきだと6銭)の割合の労働で支払うこともできましたが、5000銭の罰金を支払うためには2年くらいかかります。 刑期についての定めは不明ですが、これから考えると、「軽い労役」といっても懲役10年くらいでしょうか。 「重い労役」は・・・。
 また、5人以上で徒党を組んで盗賊を働いたときは、金額によらず「額に入墨+鼻をそぐ+重い労役」という、殆ど死刑に近い重罪でした。


参考文献
 山田勝芳、「貨幣の中国古代史」、朝日選書、2000
 松崎つね子、「中国古典新書続編24・睡虎地秦簡」、明徳出版社、2000

2002.10.12