成 尋 の 場 合

 円仁が唐代に五台山に行った約200年後、宋代に同じ五台山へ行った高僧がいました。 成尋です。
 成尋は、寛弘8年(1011)、藤原佐里の子として生まれ、天喜元年(1053)、延暦寺総持寺阿闍梨となりました。
 延久4年(1072)、61才のとき宋へ渡りました。
 このとき、別れを悲しんだ母の歌が有名です。
     忍べども子の別れ路(ぢ)を思ふには唐紅(からくれなゐ)の涙こそふれ [千載集・成尋阿闍梨母集]
 成尋の日記から、成尋が使った費用の一部を紹介します。 この頃、日本では貨幣がほとんど全く使用されていませんでした。
 (私のつたない訳ですので、誤訳珍訳など多々あると思います。お許しを)


  ● 出 発
 延久4年(宋の熈寧5年、1072)、3月15日午前4時、肥前国松浦郡壁島で唐人船に乗りました。
 ■持ってきたものは、米50斛(4750リットル)、絹100疋(13Kg)、褂2重、沙金4小両(50g)、上紙100帖、鉄100延(200Kg)、水銀180両(6.7Kg)等である。 同じ唐船に乗る人は、頼縁供奉、快宗供奉、聖秀、惟観、心賢、善久、沙弥長明の7名である。[延久4=熈寧5.3.15]
 供奉(ぐぶ)は位の高い僧、沙弥(しゃみ)は見習僧のことです。
 3月25日、無事蘇州に到着しました。

  ● 買い物
 ■銭を買うため、沙金3小両(37g)・水銀100両(3.73kg)を家主に渡した。[熈寧5.4.22]
 持ってきた砂金などを銭に交換しました。 『銭を買う』と表現しています。 日本は貨幣の無い時代です。 成尋らにとって、銭を使うことは初めての体験です。 これ以降、日記にしばしば銭を使ったことが出てきます。
 (当時のおおよその交換レート、金1両=銭10貫文、水銀1両=銭100文で計算すると、上の金銀はあわせて40貫文になります。重さにすると、なんと150キロにもなります。)
 ■自分の糸鞋(わらじ)1足を買った。80文。[熈寧5.4.17]
 ■家主の張三が、私の笠を買ってくれた。550文。頼縁供奉の笠は300文。[熈寧5.4.19]
 数日後、他の僧たちの糸鞋と笠を買いましたが、これは40文と50文でした。 身分の違いが読み取れます。
 ■(杭州の)河の左右に市があり、400文で米5斗(日本の2.6斗)を買った。[熈寧5.5.7]
 日本の1石にすると1500文で、日本の渡来銭時代の1石=500~1500文と比べると、よく似かよっています。
 ■三蔵行者が十六羅漢の像16鋪・釈迦像1鋪持って来た。銭10貫400文と絹3疋で、合わせると14貫文である。[熈寧6.1.25] 
 ■張行者が銭5400文で紫紗3疋を買って来た。夏の単衫袈裟裙に充てるためである。[熈寧6.4.9]
 上の2回の買い物から計算すると、絹1疋=1.2貫文、紫紗1疋=1.8貫文になります。

  ● 街の様子
 ■申時(午後4時)、浴堂に行き、沐浴した。8人分の料金は80文だった。[熈寧5.4.21]
 ■高い台をたて、その上に5寸くらいの人形があり、種々の巧術を見せている。見物人毎に茶湯を与え、銭1文を出ささせる。[熈寧5.4.22]
 ■食堂に老翁が来て、銭を乞うた。4文与えた。小唱を歌う小女がいた。人々は各1文与えた。私は3文与えた。[熈寧5.7.15]
 当時の日本は貨幣がまったく使用されていない時期でしたが、宋では国の隅々まで貨幣がゆきわたっていたことがよく分かります。

  ● 賃金など
 ■雇夫9人・轎子擔(かごかき)2人に3貫300文与えた。11人に300文ずつである。家主への志100文、房賃(やどちん)50文、轎子功70文。[熈寧5.5.11]
 宿賃が50文は少なすぎるように思います。 後世の感覚での宿賃とは異なるようです。
 ■頼縁と私は670文で2人を雇い、轎(かご)に乗る。他の人は歩く。35里(20キロ)を過ぎ、新昌県に着き、13人の酒代として98文を与えた。[熈寧5.5.11]
 ■卯時(午前6時)、府より粥を送られた。巳時(午前10時)、斎(食事)をした、昨日くらいではなかったが、それでも丁寧なものだった。紫皮袋1領・羊毛皮袋1領・綿襪3足・三人老僧斤・酢1瓶・酒1斗を送られた。昨日と今日、使いの毎にそれぞれ30、50、100、150文を与えた。[熈寧5.11.21]
 ちょっとした使いや労働は、30~100文くらいですが、丸一日の労働では200~300文の賃金だったようです。
 この頃は、200文で、家族が1日生活できたようです。
 ■通事陳詠に、手当てとは別に妻子の食事代として毎日200文を給することになった。1月27日~2月10日の分として、2貫800文を与えた。[熈寧6.1.30]
 これらから、1文=30~50円くらいかな、と想像できます。(ふしぎと、江戸後期の寛永通宝もこれくらいです)

  ● 食 事
 食事は、基本的には寺などが用意してくれたもので、料金は不要だったはずですが、特にもてなされたときは、心づけを出したようです。
 ■諸僧は食堂に向った。日本僧等は教主房で別食した。善を盡し美を盡したものだった。私は500文、頼縁供奉・快宗供奉は各200文、通事施十郎は100文出した。その他の人は出さなかった。[熈寧5.4.29]
 ■巳時(午前10時)、食堂で食事した。珍膳を盡したものだった。私は300文、快宗供奉は60文、聖秀・惟観・心賢・善久は各30文出した。[熈寧5.5.19]
 時には、口に合わないこともあったようです。
 ■諸僧は粟(もみ米)を飯にしていた。すこぶる堪えがたい。私は150文で白米を買い、交ぜて食した。[熈寧5.11.4]


  ● 皇帝との問答
 10月13日に開封に到着し、その2日後、皇帝にまみえました。 皇帝は、24歳の青年皇帝神宗(在位1067-85)です。
 ■午時(午前12時)三蔵来たりて請ふ。即ち房に向ひ皇帝に見(まみ)えしむ。日本風俗を問ふ。答ふ、文武の道を学ぶ。唐朝を以って基と為す。[熈寧5.10.15]
 都の広さ、人の数、国の広さ、四季はあるか、などを問われました。
 また、どんな姓があるか、王(天皇家)の姓は何か、などを問われました。
 さらに、漢地にあって本国で必要なものは何か、と問われ、香・薬・錦・蘇芳などと答えました。

  ● 五台山
 五台山へ行く準備をしました。
 ■馬2疋を買った。1疋は10貫、もう1疋は9貫、税銭は85文、合計20貫だった。[熈寧5.10.30]
 税銭とは現代の消費税のようなものでしょうか。 せっかく買った馬ですが、数日後旅の途中で売却しました。
 ■馬2疋を売った。15貫だった。10貫で買ったのが8貫、9貫で買ったのが7貫。路間の飼馬は煩が多ので売ってしまった。[熈寧5.11.5]

 皇帝より、ありがたいもてなしがありました。 五台山へ行く成尋ら僧8人の各人ごとに毎日
    米3升(2.85リットル)、麺1斤3両2分(710グラム)、油1両9銭8分(74グラム)、
    塩1両2分(38グラム)、酢3合(0.3リットル)、炭1斤12両(1Kg)、柴7斤(4Kg)
を通行する州府県鎮館駅に支給させるというものです。
 さらに、官の馬10疋、護衛の兵士20人、馬の口取り20名をつけてくれました。
 一行は、49名、馬12疋の大部隊となりました。 都の門を出るときは、大勢の人が見にきました。

 11月1日開封を出、27日に五台山に着きました。
 ■廿七日、天晴れる。卯三点(午前7時)繁時駅行衛を出ず。申一点(午後4時)宝與軍宝與駅に到着す。未時(午後2時)、始めて滅山谷に入り、軍初門に入る。始めて東台頂を見、感涙先落す。[熈寧5.11.27]
 ただし雪が多くて、山頂には登れなかったようです。

 五台山には12月2日まで滞在し、12月26日に開封に再び到着しました。

  ● 兵士たちへのお礼
 ■この州より京の兵士20人が帰った。銭500文を与えた。州より替りの兵士20人が出できた。[熈寧5.11.3]
 2日前に開封を出発したとき、つけてくれた護衛の兵士20人への礼金です。1人あたり25文になります。 兵士は官から俸給を貰っておりますので、これはチップのようなものです。
 この後も、兵士たちは2日くらい毎に地元管区の兵士と交替し、そのたびに先の兵士たちへお礼をしています。
 ■今朝、鄭州兵士20人に各15文、長1人には30文与えた。[熈寧5.12.27]
 河を渡ったときも、堰の兵士たちが助力してくれました。
 ■船を出し、揚子江を渡った。堰の兵士7人が来て加わった。巳一点(午前10時)に、潤州河に入った。堰の兵士7人に100文を与えた。梢工には100文。本兵士10人には、合わせて200文。巳三点(午前11時)に京口堰に着き、船を止めた。[熈寧6.5.7]

  ● 日記の終わり
 ■(頼縁ら)5人は相共に孫吉船に乗った。[熈寧6.6.12]
 熈寧6年(日本の延久5年、1073年)6月、日本へ帰る頼縁に仏典とともにこの日記を託しました。日記には『參天台五臺山記』の題名がつけられました。
 成尋はそのまま宋に留まり、元豊4年(日本の永保元年、1081年)宋の開宝寺で71歳で入滅しました。





  ● 成尋が持っていったお金
品物数量単価金額
50斛0.8貫文40貫文
100疋1.2貫文120貫文
2重
沙金4小両10貫文40貫文
上紙100帖1貫文100貫文
100延1貫文100貫文
水銀180両0.1貫文18貫文
 成尋が持っていったものの価値をおおざっぱに推定すると、右の表のようになりました。 合計で418貫文です。
 成尋ら8名で1日に1000文を消費したとすると、1年余の費用ともいえます。
 また、本文中で推定したように、1文=30~50円とすると、1200~2000万円になります。

【参考】このころの単位:
   1尺=31cm
   1里=360歩=553m
   1両=10銭=37.3g  小両はこの1/3
   1斤=16両=597g
   1石=120斤=71.6Kg
   1斛(こく)=10斗=100升=95リットル(現代日本の半分)



参考文献:
  「大日本仏教全書」第115冊、名著普及会、1970


2003.3.1