西周君と東周君

● 西周君と東周君
周王朝の領域
東京都と同じくらいの広さですす
(「世界史地図」吉川弘文館)
  西周、東周とは、世界史で学ぶ西周、東周ではありません。
  紀元前441年、周(世界史でいう東周)の第28代定王が死ぬと、子供たちが跡継ぎ争いを行い、三男の孝王が第31代の王になりました。
  この孝王が、弟に国の西方の領地を与えました。これが「西周」の桓公です。
  さらに、西周第3代の恵公は、末子に国の東方の領地を与えました。これが「東周」の恵公です(父と同じ名です)。

【周王室】
(28)定王┬(29)哀王
    ├(30)思王
    ├(31)孝王441-426─(32)威烈王426-402─(33)安王402-376┬(34)烈王376-369
    │                          └(35)顕王369-321─(36)慎靚王321-315─(37)赧王315-256
    └[西周]①桓公─②威公─③恵公┬④武公─⑤文公
                    └[東周]恵公

  この二つの国、決して仲はよくありませんでした。

西周

● 「戦国策」東周四 東周欲為稲 
  あるとき、東周では稲を植えようとしたのですが、川の上流の西周が嫌がらせをし、水を止めてしまいました。
  困った東周君は、そのころの遊説家で有名だった蘇さん(蘇秦かまたはその弟)に説得を依頼しました。
  蘇さんは、西周に行って西周君に言いました。
 「今、東周では麦を植えようとしていますから、水を止めるのは間違いです。かえって水を流すと麦が病んでしまいますから、水を流した方が得策です。」
  西周君は蘇さんの策にのり、蘇さんに褒美を与えました。東周に戻った蘇さんは東周君からも褒美をもらいました。

● 「戦国策」東周二十 宮他亡西周
  西周の役人だった宮他(きゅうた)という人が、東周へ亡命し、西周の情勢を伝えました。
  怒った西周君は、馮睢(ふうしょ)という人に金30斤を与え、殺害を命じました。
  馮睢は、「うまくやれ、終わったら逃げて帰れ、この金は褒美だ」と書いた密書とそのお金を宮他宛てに届けさせるとともに、密かに別の東周の役人に、「今夜宮他に怪しい使いが来るはず」と伝えました。
  当然、宮他宛への密書が見つかり、東周君は宮他を殺しました。


東周

● 周の終り
  紀元前256年、秦の昭王は周を攻め、周の本家と西周は秦に降伏しました。 このとき、西周の人口はわずか3万人でした。 その7年後の紀元前249年、昭王の孫荘襄王(始皇帝の父)により東周も滅び、ここに800年続いた周王朝が完全になくなりました。

参考文献:
  ①林秀一、新釈漢文大系47「戦国策」、明治書院、1977
  ②司馬遷、「史記・本紀」

2005.9.11