金(かね)のなる木
● 後漢の五銖
後漢五銖
25.7mm 3.2g
劉邦の建てた漢が王莽によって簒奪された後、劉秀が王位につき、再び「漢」を名乗ります。 この漢は、日本では「後漢」、中国では「東漢」とよばれます。
劉秀は、日本に「漢委奴国王」の金印を与えた光武帝です。
後漢の制度は前漢のそれを踏襲し、貨幣も前漢の五銖を継承しました。 光武帝の建武16年(西暦40年)のことです。
このとき発行された五銖を「後漢五銖」(中国では「建武五銖」)と呼びます。
● 金のなる木 ~ 『揺銭樹』
後漢初期は、貨幣経済の盛んなときでした。 農民たちも銭で売買し、納税は銭で行われました。
「金のなる木」は、そんな人たちの夢の品だったのでしょう。
東京の国立博物館には、当時の豪族の墓に埋葬されていた金のなる木、「揺銭樹(ようせんじゅ)」が展示されています。
「揺銭樹(ようせんじゅ)」
後漢時代・2世紀
Bronze Money Tree Eastern Han dynasty,2nd century
四川省を中心に後漢時代の墓からしばしば出土する。
樹木形で、枝葉には多数の銭が表される。銭は富貴を意味するのであろう。
他に神話的な女神、鳳凰、様々な神仙や怪神などが表される。
全体として死者のための辟邪あるいは吉祥を表すのであろう。
(国立博物館にて)
この木には、100枚くらいのお金がデザインされています。 「五銖銭」と同じくらいの大きさですが、面文はありません。
「金のなる木」は、四川省を中心に、当時の豪族の墓からみつかるそうです。
四川省は、その昔「三星堆文化」が発達したところです。 三星堆のおおらかさに対して、この金のなる木の繊細なつくりが対照的です。
● 綖環五銖と剪輪五銖
剪輪五銖
19.1mm 1.3g
綖環五銖
25.0mm 2.2g
(穿の径は16~18mm)
後漢の五銖銭が安定していたのは、最初の100年間くらいです。
後漢後期になると、豪族による土地所有の集中化がすすみ、人口の大部分である農民の経済力が低下し、貨幣の流通は衰退しました。
それにつれ、低品質の貨幣が作られるようになりました。
何と、1枚の銭を外と内の二つに分割して2枚として使うという、現代人には信じがたい方法が行われました。 2枚に分割した外側の銭を「綖環(すいがん)銭」、内側の銭を「剪輪(せんりん)銭」と呼びます。
参考文献:
山田勝芳、「貨幣の中国古代史」、朝日選書、2000
2005.10.23