三国志のコイン
前漢・後漢の最盛期には、中国の人口は6000万人くらいでした。
ところが相次ぐ戦乱、飢饉で人口は激減し、有名な三国志の時代では、各国の政府発表によると、
魏 443万人
呉 230万人
蜀 94万人
と、三国合わせても1000万に満たなくなるくらいにまでなっていました。
ちょうど、日本の三つの県と同じくらいです。
● 魏の場合
大国魏は、当初は後漢と同様の五銖銭を用いようとし、国内でも五銖銭を発行したようです。 しかし、魏が発行した五銖銭についてはよく分かっていません。 古銭界で「六朝五銖」と呼ばれている小さくて薄い五銖銭に近いものではないかと想像しています。
人は、常に一定量の新しい血を補給されなければ、血流が止まり死ぬことになりますが、貨幣も同様で、常に一定量の供給がなければ貨幣経済は死滅します。
魏の領内には優良な銅山が少なく、銭の生産が減少し、だんだん貨幣経済が衰えました。
税金は漢代からの銭納(成人1人あたり120銭の人頭税)が主体でしたが、貨幣経済の衰えにより、物納(土地に対しての穀物と、家に対しての絹と綿)に移行せざるを得なくなりました。
称・六朝五銖
23.2mm 2.0g
称・六朝五朱
19.8mm 1.6g
● 呉の場合
江南の呉は、漢の貨幣を踏襲せず、漢を倒した「新」の王莽の貨幣に似た貨幣を発行しました。
嘉禾5年(236年)に「大泉五百」を、赤烏元年(238年)に「大泉当千」を発行したとの記録があります。
現存量からみても、かなり多く発行されたのではないかと思われます。
大泉五百
29.0mm 5.8g
大泉当千
33.5mm 6.5g
● 蜀の場合
通常「蜀」と呼ばれていますが、この国の本名は「漢」です。 貨幣も漢の「五銖銭」を踏襲したものを発行しました。 現在「蜀五銖」と呼ばれている小ぶりの五銖銭とされていますが、確証はありません。
蜀は小国のつらさ、魏や呉との戦費をまかなうため、「直百五銖」という大銭をつくり、1枚で五銖銭100枚に相当させました。「直」は「値」と同じ意味です。この銭は意外と通用されたようで、隣国の呉でも使用されたようです。
しかし、蜀の末期になるとこの大銭もぐっと小さくなり、わずかに「直百」がかろじて見える小銭になりました。
諸葛孔明なきあとの疲弊ぶりが目に見えるようです。
称・蜀五銖
21.7mm 2.3g
直百五銖
25.5mm 2.7g
直百
12.0mm 0.3g
参考文献:
山田勝芳、「貨幣の中国古代史」、朝日選書、2000
2005.11.30