近代中国の貨幣

● 『本洋』 の時代 (~1822)
「制銭」 嘉慶通宝 1796-1820年 4.0g 24.8mm
「銀両」 銀錠 347g W59,D54,H26mm
 19世紀初頭、清は人口4億をかかえ、世界総人口の20%を占める最大国でした。
 清は、ヨーロッパ人のほしがる生糸、絹織物、茶を輸出していましたが、国民の需要はすべて国内でまかなえる国でしたから、めだった輸入はありません。 大幅な輸出超過で、銀が大量に流入していました。

 このころの主な貨幣は、「制銭(銅銭)」、「銀両(銀錠、馬蹄銀など)」、スペインの「カルロスドル」の3種類でした。
 「制銭」は、古来の穴あき銭で、通常1枚が1文でした。
 「銀両」は、お椀や馬の蹄に似た銀の塊で、決まった重さはなく、常に重さを量りながら使用する秤量貨幣でした。1gくらいの軽量のものから、1Kgを超える大型のものまで様々あります。 重さの単位は「両(テール)」ですが、地域や役所によって、はかりが何種類かあり、主なものだけでも
    ●庫平両=37.3125g 
    ●海関両(関平両)=37.679g 
    ●上海両(申漕平両)=33.824g
などの差異がありました。(海関銀1両=庫平銀1.0169両=上海銀1.1114両の数字を示している文献もあります)

 制銭と銀両の関係は、順治4年(1647)に制定された、
     庫平銀1両=制銭1000文 
の規定がありましたが、1820年ころにはだんだん相場によって変動するようになっていました。

「本洋」 スペイン8レアル銀貨 1776年 26.6g 40.0mm
 「カルロスドル」は、スペイン領のメキシコとペルーなどで作成された8レアル銀貨で、「本洋」の名で、そのまま通用しました。 「洋」の文字には銀貨という意味もあります。 本格的な銀貨、といった意味合いでしょう。
 この本洋には銀メッキの贋金が出始め、商人たちは真贋を確かめるため刻印を打ちました。 この刻印はそれぞれの商人が確認した印にもなり、かえって信用度を高めることにもなりました。 右のコインにも、何箇所にも刻印がうちつけられています。
 この銀貨は、中国では圧倒的な人気を持ち、そこに含まれる純銀の量以上の価値で取引されました。 特に、1822年にメキシコでの生産が止まると、高いときで80%もの「打歩」(プレミアム)がつくことさえありました。、



 このころアジアを訪れたイギリスのオールコックは、次のように記しています。
(茶と絹の大きな取り引きのために)すたれて再鋳できない種類のもの、すなわちカルロス金貨(銀貨の間違い?)だけが、無意味にも好まれた。中国人はこのすたれた貨幣にまったく架空の価値をつけ、それをどんどんふやしていったので、とうとうこの貨幣は使いつくされ、全然手にはいらなくなり、しかも他のドル貨の値打ちはすべて、およそ三割から四割下落したのである。 ・・・ オールコック著、山口光朔訳、「大君の都」、岩波文庫、1962



● 『鷹洋』 の時代 (1822~1890)
「鷹洋」 メキシコ8レアル銀貨 1844年 26.8g 39.7mm
 大幅な貿易赤字に悩んだ英国は、インドでアヘンを栽培し、それを中国で売りさばきました。 当局の禁止措置にもかかわらず、アヘンは蔓延し、今度は中国から銀が大量に出てゆくことになりました。 その転換期は1827年ころといわれています。
 「本洋」に代わって使われたのは、スペインから独立したメキシコの発行した8レアル銀貨で、「鷹洋(ようよう)、または「英洋」、「墨洋(ぼくよう)」、と呼ばれました。
 (コインのデザインは「鷲」なのですが、なぜか「鷹洋」です。「墨」はメキシコのことです。「英」は、鷹と英が同じ発音yingからきた誤用です。)
 銀の流出は、銀の高騰、言い換えると銭の暴落がおき、1両=700~800文だったのが、1600文前後になりました。 庶民は普段は銭を使いますが、納税のときは銀(地丁銀)で納めます。 銀の高騰は、それだけ税金が高くなったのと同じことなのです。
 生活の苦しさと政治の腐敗から、太平天国の乱(1850-64)が起きました。 この乱で、4億以上あった人口は3億人以下に激減しました。




● 『龍洋』 の時代 (1890~1911)
「龍洋」 光緒元宝 1元=7銭2分 1904年 26.9g 39.4mm
 これまで銀貨を発行していなかった清ですが、両広総督(後に湖広総督)の張之洞が、銀貨の発行を請願し、1890年から、「光緒元宝」の銀貨を発行しました。 基準となったのは7銭2分(0.72両)の銀貨で、欧米のドル銀貨と同じ重さになるようにしています。 デザインに龍の図が用いられていることから、「龍洋」と呼ばれています。
 中央政府の発行ではなく、地方の省政府の発行です。 銀貨の発行は、省政府に多大の利益をもたらし、他の省でもこれに見習って銀貨を発行しました。 中央なき地方、地方なき中央、そんな大国清でした。

 小額の銀貨(「小洋」とよぶ)や銅貨(「銅元」とよぶ)も発行されました。
    
「小洋」 2毫(20Cents) 1920年
5.3g 23.4mm
「銅元」 大清銅幣 十文 1906年
7.0g 27.9mm


【参考】  










■1901年、北京議定書における為替レート 1海関両あたり
  ドイツ    3.055マルク
  オーストリア 3.595クローネ
  アメリカ   0.742ドル
  フランス   3.750フラン
  イギリス   3.000シリング
  日本     1.407円
  オランダ   1.796フローリン
  ロシア    1.412ルーブル
■1910年ころの庶民の賃金(1月あたり) :
  紡績工  8~9元
  人力車夫 6~8元
  紡績女工 3.5~4.5元(1日10時間で、30日休みなし)
■1911年、諸貨幣の交換レート
  本洋1元 = 0.9上海両
  英洋1元 = 0.7975上海両
  龍洋1元 = 0.79575上海両
  小洋1元 = 0.69575上海両
  銅元1656文=1.0上海両









● 『船洋』 の時代 (1912~1935)
「船洋」 孫像銀貨 1圓 1933年 26.6g 39.4mm
 1911年、辛亥革命が起こり、清朝が倒れました。 その翌年、中華民国が成立し、初代の大総統には最大の実力者の袁世凱が就任しました。
 1914年から、袁世凱の像を刻んだ銀貨が発行され、これまでの本洋、鷹洋、龍洋は殆ど使われなくなりました。
 「本洋」以来の圓(円)形の銀貨は、その形状から「銀圓」と総称されていたため、この「圓」を貨幣単位としました。 ところが、「圓」は画数が多いため、通常は発音の同じ「元」が使われていました(「圓」の略字の「円」は日本固有の文字で、中国では使われていません)。 この「元」が、後に正式な単位となります。
 1927年からは、孫文の像、裏にはジャンクの銀貨になりました。 このデザインから「船洋」と呼ばれます。
 1933年、「廃両改元」により、「両」単位の使用は終わり、1元=0.715上海両の交換レートが定められました。


このころの貨幣単位:
  【両】─10─【銭】─10─【分】─10─【釐/厘】─10─【毫/豪/毛】─10─【絲/糸】
  【圓/元/Dollar】─10─【角/毫】─10─【分/仙/Cent】─10─【釐/厘】
  【貫】─1000─【文】
ここに、1圓(元)=約0.72両、1両=800~1600文。
同じ文字でも異なる意味で使われることがあったことに注意。


● 『法弊』と『辺弊』 の時代 (1935~1948)
 1929年におきた世界恐慌と、それに続く世界の金本位制崩壊で、金・銀価格が乱高下し、銀本位制をとっていた中国の経済は大混乱します。
 1935年、国民党の蒋介石政権は、銀貨の流通を禁止し、政府系の4銀行(中国銀行、中央銀行、交通銀行、中国農民銀行)の発行する紙幣(「法弊」)のみを貨幣として認めました。 そして、1元をイギリスの14.5ペンスと等価と定めることにより、その価値を保証しました。
 (100元 = 英6.04ポンド = 米29.75ドル = 日103円 でした)
 
「法弊」 中央銀行券 1圓(元) 1936年

 数年はそれなりに流通していた法弊ですが、1937年に日中戦争が始まると、日本は「蒙疆銀行」「中央儲備銀行」などを設立し、独自の紙幣や軍票を流通させました。 また、日本軍は大量の法弊の偽金をつくり、中国全土はハイパーインフレーションに見舞われました。
 一方毛沢東の共産党も、解放区ごとに「辺幣」と呼ばれる通貨を発行し、日本軍や国民党と争いました。
「辺弊」 晋察冀辺区銀行券 5圓(元) 1939年
 1945年に日本軍が撤退すると、法弊と辺弊の争いになりましたが、国民党政府は次第に勢力を失い、1948年、300万分の1にデノミした「金元券」に切り替えましたが、それも長続きせず、翌年には新たな「銀円券」に切り替えました。
 その後、1949年10月に中華人民共和国が成立し、12月に国民党政府は台湾に逃れました。



略年表
嘉慶帝(1796~)
道光帝(1820~)1827
1840~42
1842
アヘンの流入が盛んになり、このころ輸入超過に変わる。
アヘン戦争
南京条約。香港島割譲、賠償金2100万ドル、広州・福州・厦門・寧波・上海の5港を開港
咸豊帝(1850~)1850~64太平天国の乱
同治帝(1861~)
光緒帝(1874~) 1884~85
1885
1890
1899~01
1901
1904
1907
日清戦争
下関条約。賠償金は2億庫平両(2.993億円)
両広総督が龍洋を発行。他の省でも続く。
義和団事件。
北京議定書。賠償金は4.5億海関両の39年分割払い。
清朝、戸部銀行設立(後大清銀行、中国銀行)。
清朝、交通銀行設立
宣統帝(1908~) 1908
1910
1911
1912
この頃銭荘最盛期。
「幣制則例」。円、角、分、厘の銀本位制。
辛亥革命
中華民国成立。宣統帝退位。
袁世凱
(1913~16)
孫文、広東政府
(1921~25)
蒋介石、国民党政府
(1928~ )
1914
1919
1921
1927
1928
1933
1934
1935
1948
国幣条例。袁世凱の銀貨(袁像銀貨)発行。
この頃、本洋・鷹洋・龍洋から袁像銀貨に変化。
金融恐慌。
孫像銀貨発行。袁像銀貨を駆逐する。
中央銀行設立。
廃両改元。1元=0.715上海両。
アメリカの銀買い上げ法で、銀流出。
幣制緊急令。1元=14.5シリングとした「法弊」を発行。
300万分の1にデノミした「金元券」を発行。

参考文献
  川合悟ほか、「データでみる中国近代史」、有斐閣選書、1996
  宮下忠雄、「近代中国銀両制度の研究」、有明書房、1990(原著は昭和27)


2005.12.24  2020.4.23 改訂