アレクサンドロスの夢

  ● マケドニアとフィリッポス2世(アレクサンドロスの父)
 マケドニア人たちがギリシャ北部に王国をつくったのは、紀元前7世紀のころです。 文明国のギリシャ人たちは、彼らを野蛮人(バルバロイ)の一部とみていました。
 マケドニアが強くなったのは、フィリッポス2世(在位前356~336)のころからです。 フィリッポス2世は、パンガイオン金山から算出する金銀で貨幣をつくり、富国強兵を盛んにしました。 長さ5.5メートルの長い槍を持った重装歩兵が8列に並ぶ、密集歩兵部隊(ファランクス)による戦法を編み出しました。
 338年、ケーロネアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシャ世界の盟主となりました。
    フィリッポス2世の1/5スタータ銀貨
表:アポロ神
裏:馬に乗ったフィリッポス2世。上部にΦΙΛΙΠΠΟΥ(Philippoy)。
2.4g 13.2mm

  ● 東 征 行
 フィリッポス2世は、ペルシャへの遠征を企てていた336年、ふとしたことで暗殺されてしまいました。 父の跡を継いだアレクサンドロスは、父の夢を、より強い夢にして受け継ぎました。 このときアレクサンドロスは20歳でした。
 334年、東征を開始しました。 従うのは騎兵4~5千、歩兵3~4万の軍勢です。 対するペルシャは、この10倍近い兵力があったそうです。
 333年、イッソスでダレイオス3世の率いる大軍に対峙しました。  アレクサンドロス自らが先頭にたった突撃に、ダレイオスは恐怖にかられて敗走し、ペルシャ軍は大敗しました。
    ダレイオス3世のシグロイ銀貨
表:座っている王様
なんともユーモラスな王様像です。
5.5g 15.8mm
 その後もペルシャを攻め続け、とうとうダレイオス3世は逃走中に部下に殺されました。
 アレクサンドロスは、ペルシャを併合するだけでは満足せず、「アジアの王」となるべく、ソグディアナやインドへ侵攻しました。


  ● アレクサンドロスの夢
 アレクサンドロスは、盛んに新政策を実行しました。
   ・各地にギリシャ人の入植都市を建設
   ・ペルシャ風の儀式の採用
   ・ペルシャ人との合同結婚
   ・ペルシャ人の兵士を登用
 多くのマケドニア将兵にとって、敗者である異国を対等に扱おうとするアレクサンドロスの方針は、全面的には理解できるものではなく、また受け入れられる気持ちにはなれなかったようです。
 アレクサンドロスの夢は、2000年以上早すぎた、そんな気がします。

  アレクサンドロスのテトラドラクマ(4ドラクマ)銀貨
表:若きヘラクレス(ライオンの頭皮を被っている)。
 モデルはアレクサンドロス大王その人。
裏:ゼウス(右手に鷲、左手に笏杖)
 右横に縦にΑΛΕΞΑΝΔΡΟΥ(Alexandrou アレクサンドロスの)。
アレクサンドロスの死後、紀元前310~309年に
フェニキアのアッケで発行されたものです。
27.9mm 16.83g

ドラクマ銀貨
紀元前323~317年に
小アジアの西北端、ランプサコスにて発行されたものです。
17.5mm 3.93g

単位不明の銅貨
17~18mm 6.2g



  ● アレクサンドロスの収支
 アレクサンドロスが東征を開始したときの軍資金は決して多いものではありませんでした。
 (1タラントン=6000ドラクマ。1ドラクマは約4gの銀貨で、通常の兵士1日の給料ですので、現在の5千円くらい、と想定します。 そうすると、1タラントンは3000万円になります。 なお、「タランタ」はタラントンの複数形です。)
 ■私が父から受け継いだものは、わずかばかりの金銀の盃と金庫にあった60タランタ足らず、しかもフィリッポスがこしらえたおよそ500タランタもの借金を背負いこんだうえ、私自身も別途800タランタの借りをつくるという、そんな状態のなかで私は、諸君が自活していくさえどう見ても覚束ない土地から軍を起こし、・・・[7-9]
 イッソスの戦後、敗走したダレイオスが残したダレイオスの家族と3000タラントンを接収しました。 その後も進撃を続けるたびにペルシャの財宝を接収しつづけました。
 ■アレクサンドロスはバビュロンを出発してから二十日間でスサに到着した。市内に入ると彼は財貨を接収したが、その量は銀にして5万タランタにのぼり、ほかに王家所蔵の御物全部もまた接収された。[3-16]
 アレクサンドロスは、総額でペルシャの金銀18万タラントンを獲得したそうです。 1タラントンを3000万円とすると、5.4兆円になります。
 アレクサンドロスは、獲得した潤沢な金銀を惜しげもなく使いました。
 ソグディアナを攻めたときのことです。ソグディアナ人たちは、「ソグディアナの岩砦」に閉じこもり、”翼のついた兵士を探してこの山を占領してみろ”と大王を挑発しました。
 ■そこでアレクサンドロスは軍中に触れまわらせて、登攀一番乗りの者には賞金として12タランタ、これにつづいた第2着の者には第2位の賞金、第3着にはそれに次ぐ賞金という風に、以下順に進んで、最後に登りついた者には最後の賞として300ダレイコスが出ることを公約した。[4-18]
 300ダレイコスはおよそ1タラントンに相当します。 300人の兵士が挑戦し、9割が成功しました。 (失敗した兵士は、・・・)

デカドラクマ(10ドラクマ)銀貨
(イミテーション)
実物は大英博物館にあります。
実物の大きさ:33mm 42.4g


大王が被っているのはライオンの頭皮です。


  ● アレクサンドロスの兵士たち
 軍隊の給与の構成が記録されています。
 ■彼ら(ペルシャ人)をマケドニア軍の歩兵部隊に編入した。十人隊長として小隊を指揮するのはマケドニア人であって、これに次いではいずれもマケドニア人の、「倍額取り」と「十スタテル取り」とが配属された。こう呼ばれたのは給与の点からで、その「十スタテル取り」の名を取ったのは、給料が「倍額取り」にはおよばないながら、列伍の一般兵士よりは多い者であった。それらの者たちのつぎに12人のペルシャ人兵士が来て、十人隊のしんがりを、これも「十スタテル取り」であるマケドニア人が固めるという編成だった。[7-23]
 まとめると、十人隊の編成は、
    小隊長 ・・・ 給与不明
    マケドニア人の「倍額取り」 ・・・ 1名  月給60ドラクマ
    マケドニア人の「十スタテル取り」 ・・ 2名 月給40ドラクマ
    ペルシャ人の一般兵士 ・・・ 12名 月給30ドラクマ
の16人です。
 役目を終えた兵士たちには、本来の給料のほかに、気前よくボーナスを出しました。
 ■さてこうしてマケドニア人のうち、年齢をとったりその他何らかの事情で、軍勢に耐え得なくなった者たちは、自発的に王に別れを告げることになった。その数はおよそ1万人に達した。アレクサンドロスは彼らに過ぎ去った歳月の分ばかりか、これから帰国するのに要する日数までも計算に入れて、その給与を支払ってやった。しかも彼は給料分に加算してひとりひとりに、さらに1タラントンずつを上乗せしてやったのである。[7-12]
 1タラントンは、つましく暮らせば1家族が10年以上暮らせる金額です。

        1990年発行 ギリシャの100ドラクマ銅貨
上部にΜΕΓΑΣ ΑΛΕΞΑΝΔΡΟΣ(アレクサンドロス大王)
下部にΒΑΣΙΛΕΥΣ ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ(マケドニア王)

 ● アレクサンドロスの死と後継者争い
 アレクサンドロスは、しばしば発熱しています。 323年6月、バビロンにてアラビアへの派兵計画を立てているときにも発熱しました。
   彼はもう口も利けない状態だったが、それでもひとりひとりに心もち頭をあげるように会釈をかえし、両の眼でうなずきかえすのだった。
側近のヘタイロイ(マケドニア貴族の騎兵)たちが王権を誰に遣すおつもりかと問うたところアレクサンドロスは、いちばん強い者に、と答えた・・・[7-26]
 323年6月13日、バビロンにて没しました。 まだ32歳でした。
 アレクサンドロスには有力な後継者がいませんでした。 後継者を自称する武将が乱立しましたが、301年、最も野心的だったアンチゴノスが他の諸将に破れ、遺領の4分割が確定しました。
    【マケドニア・カッサンドロス朝】301~168
    【小アジア・リシマコス朝】306~281
    【エジプト・プトレマイオス朝】301~31
    【シリア/ペルシャ・セレウコス朝】312~65
 その後、すべての国は、カエサルやポンペイウスの率いるローマに併合されました。

    カッサンドロス朝の銅貨
表 : ポセイドン神
裏 : アテネ神
カッサンドロス朝のフィリッポス5世 (221-179BC)。
16.0mm 2.8g
プトレマイオス朝のシェケル銀貨
(テトラドラクマ銀貨)

表 : フェニキアの神メルクォート。
裏 : 鷲。
24.0mm 14.1g
 参考文献
  アッリアノス著、大牟田章訳、「アレクサンドロス大王東征記」、岩波文庫、2001

2005.3.19   2010.9.15 update