「レ・ミゼラブル」より


 
1/5エキュ=24スー銀貨 1788年発行 5.8g 25.7mm
(ルイ16世)
1エキュ銀貨の他に、
1/2~1/20エキュの各種の銀貨が発行されました。

 フランスの革命前後の貨幣制度 :
●革命前
 3種類の貨幣制度が共存していました。
  (1)ローマ古来の貨幣制度
     1リーブルLivre=20スーSou(ソルSol)=80リアールLiards=240デニエDenier
  (2)「エキュEcu銀貨」 - 25~35gの銀貨です。
  (3)「ルイ金貨Louis D'or」 - 6.5~8.2gの金貨です。
 エキュとリーブルの交換レートは、17世紀には1エキュ=約3リーブルでしたが、その後変化し、
 1726年以降は1エキュ=6リーブルで固定されました。
 ルイ金貨は、大きさが一定せず、20~40リーブルの間を変動していました。
   
40フラン金貨 1811年発行 12.8g 26.0mm
(ナポレオン)
通常の「ナポレオン金貨」はこの半分の20フランです。
●革命後
 1795年、革命政府はリーブルを「フラン」とあらため、
     1フランFranc=100サンチームCentime
の貨幣制度としましたが、この物語にもあるように、通常は 『1フラン=20スー』 の体系が使われていました。
 金貨は、「ナポレオン金貨」、ナポレオン退位後は「ルイ金貨」がありました。どちらも20フラン金貨が標準でした。


  
1スー銅貨 1785年発行 11.2g 28.1mm
(ルイ16世)
■彼はふたりをすぐ前のパン屋の店に押し込み、
帳場に銅貨を置きながら叫んだ。
「おい、パンを1スー。みきれにしてくれ。3人だからな。」
 ●ジャン・バルジャンの1日の労賃 ~ 24スー
 ジャン・バルジャンは寡婦の姉とその7人の子供たちを養っていました。
■彼は樹木の枝おろしの時期には日に24スー得ることができた。それからまた、刈り入れ人や、人夫や、農場の牛飼い小僧や、耕作人などとして、雇われていった。彼はできるだけのことは何でもやった。姉も彼について働いたが、七人の幼児をかかえてはどうにもしかたがなかった。(1795年)
 冬になると仕事がなくなり、家にはパンもない悲惨な状態が続きました。
 一人一日分のパンは1スーか2スーです。ある日曜日の夜、彼はパン屋のパンを盗もうとして捕らえられました。そして、何と懲役5年の刑に処せられたのです。

5フラン銀貨 1824年発行 24.8g 27.4mm
(ルイ18世)
■「まあ有り難い、おひさまが照ってる! 5フラン! 
光ってるわ、王様だわ、このでこの中にね。
しめだわ。あなたは親切なねんこだわ。
あたしあなたにぞっこんでよ。
いいこと、どんたくだわ。
2日の間は、灘と肉とシチュー、
たっぷりやって、それに気楽なごろだわ。」
・・・ テキストのママです ・・・
 ●教会の銀の燭台 ~ 200フラン
 ジャン・バルジャンは何度も脱獄しようとしため、釈放されたのは19年後の1815年のことで、既に47歳になっていました。 刑務所帰りの男を泊めてくれる宿はなく、やっと親切な司教が教会に泊めてくれました。 ところが、彼はこの教会の銀の食器を盗んでしまいます。 彼を捉えた警官が、教会に確認に行きました。 司教は、彼を見て、こう言いました。
■「ああよくきなすった! 私はあなたに会えて嬉しい。ところでどうしなすった、私はあなたに燭台も上げたのだが。あれもやっぱり銀で、200フランぐらいにはなるでしょう。なぜあれも食器といっしょに持って行きなさらなかった?」(1815年)
 ジャン・バルジャンは、生涯この銀の燭台を手放すことはありませんでした。
 ジャン・バルジャンは、この後偶然通りかかったモントルイュに住み、マドレーヌと名を変え、「黒い装飾品」の製法を改良し、財をなしました。 収益の多くは貧しい人たちのために使いましたが、それでも5年間で60万フランもの貯えができました。
 1820年、彼の善行を知った政府により、モントルイュの市長に任命され、市民たちから慕われました。
 しかし1823年、過去が発覚し、ふたたび社会から逃避した生活に戻ります。

  
1リアール銅貨 1720年発行 2.8g 20.5mm
(ルイ15世)
■どの家でも、水を得ることはかなり骨の折れる仕事であった。
大きな家、上流階級、それらの家では
1桶について1リアールずつで水を買っていた。
水くみを職業としているのは1人の老人であって、
村の水くみの仕事で1日に8スーばかり得ていた。

●このころの庶民生活 (この物語に出てくるものです)
 肉体労働者の1日の賃金 25~30スー
 女性のシャツ縫いの1日の賃金 12スー
 1日分のパン 1~4スー
 1桶の水 1リアール(1/4スー)
 1足の靴下 30スー
 毛糸編みの裾着 10フラン(200スー)
 橋の通行料 1スー
 宿賃(泊まるだけ)20スー 宿の夕飯6スー


①パリ
②刑務所のあったツーロン
③親切な司教のいたディーニュ
④市長をしていたモントルイユ
⑤コゼットが育ったモンフェルメイユ

項目年間支出
(フラン)
備考
家賃30きたない部屋一つ
掃除のおばさん36月に3フラン
食費3651日1フラン
雑費19 
衣服100 
シャツ50 
洗濯50 
残り50 
 ●マリユス青年の年間支出 ~ 700フラン
 マリユス青年は、祖父の家を飛び出しパリに出、苦学して弁護士の資格をとります。それでやっと仕事にありつけました。
■広告文をつづり、新聞の翻訳をし、出版物に注を入れ、伝記を編み、その他種々のことをやった。それでもともかく毎年、700フランはきまって収入があった。それで生活を立てた。必ずしもひどい生活ではなかった。(1829年)
 右の表は、1年間の家計簿です。食費の内訳は、
   昼食 パン1スー、卵1~3スー
   夕食 肉1皿6スー、野菜半皿3スー、デザート3スー、パン3スー、給仕に1スー、計16スー
合計で1日20スー(1フラン)、年365フランという計算です。
 青年は、公園でいつも老人と一緒にいる少女に恋をしました。 老人はジャン・バルジャン、少女はジャン・バルジャンが救った薄幸の少女コゼットです。

1000フラン紙幣  1831~46年に発行されたもの
(画像 Colnectより)
 ●コゼットにあげたお金 ~ 60万フラン
 マリユスとコゼットは結婚することになります。 マリユスの祖父は、収入の少ない二人の将来を憂います。
■その時、荘重な落ち着いた声が聞こえた。
 「ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢(コゼットのこと)は、60万フランの金を持っています。」
 ジャン・バルジャンは自ら包みを開いた。それは一束の紙幣だった。人々はそれをひろげて数えてみた。1000フランのが500枚と500フランのが168枚はいっていて、全部で58万4千フランあった。
(1833年)
 ジャン・バルジャンは、モントルイュで貯えたお金をすべて、コゼットの母親から預かったものとうそをついて出したのです。
 ジャン・バルジャンは、この年の秋、二人にみとられながらなくなりました。65歳でした。


●現在の貨幣価値との比較 :
 現在の貨幣価値との比較は単純ではありません。労働者の賃金と、その賃金で購入できるもの(特に食糧、衣類、生活道具)の価値が現在と大きく異なるからです。多少危険ではありますが、
 労賃を基準にすると
    1フラン=5000円、1スー=250円
 食糧を基準にすると
    1フラン=2000円、1スー=100円
 物(衣類、生活道具)を基準にすると
    1フラン= 500円、1スー= 25円
くらいでしょうか。とすると、ジャン・バルジャンがコゼットにあげた60万フランは、30億円または12億円または3億円ということになります。

  参考文献 :
     ユーゴー、豊島与志雄訳、『レ・ミゼラブル』、岩波文庫、1987
2005.7.3  2005.12.29紙幣追加