太政官札物語

  旅籠「煙草屋」の前まできたとき、三岡はたまりかねて、
「竜馬あっ」
  と、二階へ呼びあげた。 ひびきに応ずるように竜馬は二階から顔を出し、
「やあ三岡か、話すことが山ほどあるぞ」
  と、どなりおろした。
     ・ ・ ・ ・ ・ ・
  この男が竜馬に、新政府財政の基本的な考え方はこうあるべきだと説き、その財政技術のひとつとして金札の発行を説いた。
  兌換紙幣のことである。新政府にはまだ信用がないため京大坂の富豪を説き、かれらに発行の勧進元をさせ、その信用と財力を借りれば一千万両ぐらいの金はたちどころにできあがるだろうと三岡はいうのである。
                        ・・・・・  司馬遼太郎、『竜馬がゆく』


  「太政官札」金1両  133×45mm
  福井藩士 三岡八郎
 安政6年(1859)、福井藩士三岡八郎(30歳)は、藩財政建て直しに成功します。 商人に低利で金子を貸し付けることで養蚕事業を起こし、藩の収入を高めた、いわゆる殖産興業です。
 慶応4年正月、新政府発足と同時に「参与・会計事務掛・御用金穀取締」を命ぜられました。 この年の5月、殖産興業を名目とした新政府の紙幣「太政官札」を発行します。 10両、5両、1両、1分、1朱の5種類です。 当時は「金札」と呼ばれました。
 当時、諸藩の発行した紙幣(いわゆる藩札)はありましたが、全国規模で通用する紙幣は初めてでした。
 三岡の目論見とは異なり、この札の殆どは新政府の国庫窮乏の補填と膨大な軍資金のために使用されました。 会津戦争が終わったのはこの年の9月です。

  佐賀藩士 大隈重信
 まだ新政府の社会的信用は高くなく、発行後まもなく、正貨100両に対して金札120~150両となりました。 外国公使らが、新政府に金札の時価通用を迫ります。
 明治2年2月、「外国官判事」の大隈重信(31歳)は、同郷の江藤新平らと語らい、三岡八郎に金札の価値下落の責任をとらせて失脚させます。 軍事権を薩長に独占され、せめて経済権だけは肥前に、との思いがあったのではないでしょうか。
 しかしその後も金札の相場は下落、正貨100両に対して、166両までに下落します。
 明治2年5月、準備中の新貨幣との交換を約束するとの布告を出したことで信用は回復され、正貨の価格を上回ることもあったそうです。 もっともこれは金札の信用が高まったというより、正貨の二分金に贋金が氾濫し、信用を無くしていたためでもあるでしょう。

  当時の正貨 「明治二分金」
  この貨幣にも偽造が多かった
  3.0g 20×12mm
  元富山藩士 安田善次郎 
 元富山藩の下級武士、安田善次郎は江戸に出て商人となり、慶応2年(1866)には日本橋小舟町に「安田商店」を開きます。
 明治2年4月、新政府が金札を時価通用ではなく、正貨と1:1で交換するらしいとの情報をキャッチ、金札を時価で買い集めます(このとき31歳)。 彼が得た利益は莫大なもので、5000両だった安田商店の資産は、翌明治3年には14000両になりました。


  福岡藩士 矢野安雄ら
 明治2年3月、福岡藩の元勘定奉行で既に引退していた山本一心が、矢野安雄(31歳)、福間重巳ら藩重役に太政官札の贋作を提案します。  老人は、戊辰の役の出費、新政府への拠出金などで窮乏の藩財政を救うためにはこの方法しかない、と説明します。
 なおも躊躇する重役たちに
 「この方法しか藩を救う術はない。藩の為である。同じことはどこの藩でもやっている公然の秘密なのだ」
と説得、ついに重役達も承知し、空家となっている元家老屋敷を工場として制作にとりかかります。 制作は山本一心が過労で倒れた後も続けられ、藩財政はなんとか保たれます。
 明治3年6月、ふとしたことから事が露見し、責任者はすべて逮捕され、東京に護送されます。 彼らの誤算はもう一つありました。 彼らの行いは藩のためであり、家族は藩から優遇されるだろうと思っていたところ、藩に迷惑をかけた罪人の家族と扱われたのです。 それを知った福間は失意の余り、獄中で発狂しました。
 翌年6月、矢野ら5名は「不届至極ニ付、庶人ニ下シ斬罪申付」けられました。


  明治5年2月に発行された「明治通宝札」  112×72mm
  ドイツの技術で作成され、「ゲルマン紙幣」と呼ばれた
  太政官札の終了
 結局、4800万両の太政官札が発行されました。
 贋造は、福岡藩だけでなく、秋田藩、広島藩、旧会津藩領、横浜居留地の外人、また香港でも行われたそうです。
 明治5年2月、新たに発行された「明治通宝札」に交換されました。 1両=1円です。 交換は明治12年10月に終了しました。



  エピローグ
 三岡八郎、その後由利公正と改名、東京府知事などをつとめ、明治42年没。
 大隈重信、その後2期にわたり総理大臣となり、また東京専門学校(現在の早稲田大学)を設立。大正11年没。
 安田善次郎、その後安田銀行(後の富士銀行)を設立、「銀行王」と称される。大正10年、暴漢に襲われ没。
 矢野安雄の妻りん、世が世ならご家老の奥方様のところ、不遇のうちに昭和2年没。
参考文献
 久光重平、「日本貨幣物語」、毎日新聞社、1976
 松本清張、「贋札つくり」、1953


2002.5.11 2005.5.22 「金札入」を追加