小説のタイトルになった貨幣
貨幣の名前をそのままタイトルにした小説があります。
大正・昭和期の文豪の作品ばかりです。
中でも、清張と乱歩の作品はどちらも有名なデビュー作です。
● 松本清張 『西郷札』
昭和26年3月
粂太郎は雄吾に初対面の挨拶の後、愛想のよい雑談をはじめたが、いつかその雑談が本筋の話に変わっていた。 彼は云うのである。 先日、自分が九州の旅から帰っての土産に西郷札というものをもらった。 かねがね新聞や噂で話だけは聞いていたが見るのは初めてで、貰った札は五円札と十円札であった。 その人の話によると日向の方では、一時はこれがお上に買上げになるだろうということで大切にしていた。 また、実際、申請もしたのだが、賊軍の出した紙幣というので沙汰止みとなり、一文の値打ちもないことが分かると、反古同然、今は子供のオモチャになっているということである。
「これが、その実物です」
と粂太郎は懐から風呂敷に包んだものを出して、中をひろげた。
雄吾には忘れられないなつかしい薩軍紙幣であった。この二、三枚にも戦塵の匂いの濃い思い出が湧く。
「西郷札金五円」
明治10年、西南戦争のときに薩摩軍が発行。120×74mm。
寒冷紗2枚を和紙を挟んでわらび粉の糊で貼り合わせ、漆墨で印刷したものです。
5円の他に、10円、1円、50銭、20銭、10銭の5種類がありました。
● 江戸川乱歩 『二銭銅貨』
大正11年9月
「おれは、きのう君が湯へ行ったあとで、あの二銭銅貨をもてあそんでいるうちに、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ、こいつはおかしいと思って、調べて見ると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見たまえ、これだ」
彼は、机の引出しから、その二銭銅貨を取り出して、ちょうど練り薬の容器をあけるように、ネジを廻しながら、上下にひらいた。
「そら、ね、中が空虚になっている。 銅貨で作った何かの容器なんだ。 なんと精巧な細工じゃないか。 ちょっと見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変わりがないからね。 ・・・ だが、妙なことはそればかりじゃなかった。 というのは、俺の好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発したところの、一枚の紙片がその中から出て来たんだ。 それはこれだ。」
「2銭銅貨」
明治6~17年発行。31.81mm、14.26g。
厚さは2.3ミリもあります。
● 小川未明 『一銭銅貨』
昭和8年4月
<<英ちゃんの財布には1銭銅貨が1枚あるだけでした。>>
その晩、英ちゃんは、財布をまくらもとに置いて、寝たら、夢を見ました。
「坊ちゃん、私たちも、人間と同じように、一代のうちに、悲しいこともあれば、うれしいこともあります。大事に取り扱われればうれしいし、粗末にとりあつかわれればいい気持ちはいたしません。ひとつ身にしみて、忘れられないお話をいたしましょうか。」と、一銭銅貨が、いいました。
<<そうして、一銭銅貨が、こんな話をしました。
電車の中で、おじいさんが車掌さんから切符を買おうとしましたが、1銭足りません>>
あわれなおじいさんは、このとき、つえをついて立ち上がりました。そして、電車から降りるため出ていこうとしました。
「おじいさん、一銭足らないのは私があげます。」といって、車掌さんは、自分のがまぐちから一銭銅貨を出して、おじいさんにやりました。
おじいさんは、心からありがたく思って、そのお金をいただきました。
「坊ちゃん、そのときの、一銭銅貨が、私なんですよ。」と、銅貨が、いいました。
「竜1銭銅貨」
明治6~21年発行。27.87mm、7.13g。
物語の中では、明治9年発行の1銭銅貨となっています。
● 芥川龍之介 『十円札』
大正13年8月
「堀川君、これは少しですが、……」 粟野さんはてれ隠しに微笑しながら、四つ折に折った十円札を出した。
「これはほんの少しですが、東京行の汽車賃に使って下さい。」
保吉は大いに狼狽した。ロックフェラアに金を借りることは一再ならず空想してゐる。しかし粟野さんに金を借りることはまだ夢にも見た覚えはない。
彼はその夕明りの中にしみじみこの折目のついた十円札へ目を落した。鼠色の唐艸(からくさ)や十六菊の中に朱の印を押した十円札は不思議に美しい紙幣である。楕円形の中の肖像も愚鈍の相に帯びてゐるにもせよ、ふだん思ってゐたほど俗悪ではない。裏も、・・品の好い緑に茶を配した裏は表よりも一層見事である。これほど手垢さへつかずにゐたらば、このまま額縁の中へ入れても・・いや、手垢ばかりではない。何か大きい10の上に細かいインクの楽書もある。彼は静かに十円札を取り上げ、口の中にその文字を読み下した。
「ヤスケニシヨウカ」
「大正兌換銀行券10円」
大正4年~発行。79×139mm。
表の左側に和気清麻呂がいることから、「左和気10円札」と通称されています。
大正10年ころ、東京・大阪間の料金は、三等の急行で片道7円13銭でした。
● 川端康成 『五十銭銀貨』
昭和21年2月
<昭和14年ころの話です>
月始にもらふ二円のお小遣は、母が手づから芳子の蟇口に五十銭銀貨で入れてくれる習はしだつた。
五拾銭銀貨はそのころ少なくなつて来てゐた。 軽いやうで重みのあるやうなこの銀貨は、赤革の小さな蟇口にいつぱい堂々と威厳にあふれて、芳子には見えた。
週に一度会社の帰りに百貨店へ寄つて、一本拾銭の塩味のついた大好きな棒パンを買ふ以外、これと言つて自分で金をつかふことのない芳子だつた。
それが或る日、三越の文房具部で硝子製の文鎮が目についた。 六角形で、犬を浮彫にしてある。 その犬が可愛くてつい手に取つてみると、ひやりとした冷たさと、ふとした重みと、急に快い感触で、かういふ利巧な細工物の好きな芳子は、思はず惹きつけられた。 芳子はしばらくそれを掌に載せてとみかうみしてから、惜しさうにそつと元の箱の中に返した。 四拾銭だつた。
「小型50銭銀貨」
大正11~昭和13年発行。23.50mm、4.95g。
昭和14年ころ、女性の会社員の月給は40~50円でした。
● 太宰治 『貨幣』
昭和21年2月
私は、七七八五一号の百円紙幣です。
私の生れたころには、百円紙幣が、お金の女王で、はじめて私が東京の大銀行の窓口からある人の手に渡された時には、その人の手は少し震えていました。あら、本当ですわよ。その人は、若い大工さんでした。その人は、腹掛けのどんぶりに、私を折り畳(たた)まずにそのままそっといれて、おなかが痛いみたいに左の手のひらを腹掛けに軽く押し当て、道を歩く時にも、電車に乗っている時にも、つまり銀行から家へと、その人はさっそく私を神棚にあげて拝みました。私の人生への門出は、このように幸福でした。私はその大工さんのお宅にいつまでもいたいと思ったのです。けれども私は、その大工さんのお宅には、一晩しかいる事が出来ませんでした。
「兌換券100円」
(1次100円) 昭和5~18年発行。93×162mm。
聖徳太子が初めて登場した紙幣です。
昭和10年ころ、会社の課長さんの月給が100円くらいでした。
参考資料:
『青空文庫』
2002.12.14 2006.11.10 太宰治を追加 2022.3.1 小川未明を追加