江戸の川柳
以下、江戸後期の物価と照らし合わせて、
金1両=金4分(ぶ)=金16朱=約20万円
銀1匁=銀10分(ふん)=約3000円
銭1文=約30円
と考えました。
「分」の字にはご注意。 金のときは「ぶ」と呼び、銀のときは「ふん」と呼びます。 金1分は5万円、銀1分は300円相当です。 紛らわしいので、金のときは「歩」、銀のときは「分ん」とか「ト」と書くことがあります。
●小 判
(20万円)
これ小判たった一ト晩居てくれろ
[柳多留.初]
1両といえば、長屋住まいの人たちにとっては、ほぼ月収に相当します。久しぶりに手に入れた小判ですが、その日のうちに借金の支払いに消えて行きます。せめて一晩だけでも・・・
夢にだに小判は見ぬと太鼓言い
[柳多留.23]
。。。 太鼓とは、遊女と客の間を取り持つ太鼓持ちのこと
ああ欲しいなあ百両に人たかり
[柳多留.20]
。。。 実感!
小判では嫌だと逃げるつくし売り
[柳多留.6]
。。。 1つ売って1文か2文のつくし売り、代金に小判で出されても困ります
こんな川柳もあります :
江戸ものの生まれ損ない金をため
[柳多留.11]
●一分金
(5万円)
素一分
すいちぶ
は心細くも唯一騎
[柳多留拾遺.4]
吉原は当時の男の遊び場。やっと工面した一分金1枚で遊びに行こうとしています。 吉原中級の遊女の値段は丁度金1分が相場。余裕は全く無く、楽しみと心細さが半ばしています。
謡曲「兼平」に次の一節があります :
さて其後に木曾殿は、心細くも唯一騎、粟津の原のあなたなる、松原さして落ち給ふ。
ところで、この一分金、どこにしまっていたのか、
ふんどしをひねくり廻し一分出し
[万句合・安永6]
。。。 汚ったねー
さて、一夜あけた結果は、
もてた奴また苦労して一分溜め
[やない筥.1]
。。。 もてた奴は、またお金を溜めることにする
一分出し夜の明ける迄
癪
しゃく
を押し
[柳多留.32]
。。。 遊女は、客が気に入らないと、仮病の癪になる
三人で三分なくなる知恵を出し
[柳多留.初]
。。。 女房には内緒で来た3人、言い訳を考える
●銀4分
(1200円)
恥ずかしさ医者に鰹の値が知れる 雨註、四分ン。酔つたやつ。
[万句合・安永4]
江戸っ子は借金しても初鰹を食べたがったそうです。初鰹の値段は普通金1分(5万円)くらいで、長屋の江戸っ子には高嶺の花。安い鰹を食って中毒にかかり、鰹の値段を医者に知られてしまって、恥ずかしい恥ずかしい。
雨譚の注釈では、この鰹の値段を銀4分としています。銀4分は銭40文(1200円)くらい。安い安い。(右の豆板銀は約1.2匁。銀4分は、この1/3)
「酔ったやつ」とは「中毒にかかった者」という意味。医者にかかれるのはまだいい方、金のない者は中毒消しの桜の皮をしゃぶりながら魚屋を恨みます。
あす来たらぶてと桜の皮をなめ
[柳多留.5]
●二朱銀
(2.5万円、40枚で100万円)
南鐐
なんりょう
を
四十
しじゅう
つまらぬ事に出し
[柳多留.127]
間男したときの詫び代は5両が相場でした。南鐐二朱銀×40枚=5両です。なんとか示談にしてもらいましたが、つまらぬことにお金を使ったと反省することしきり。といいながら、こんなこと「しじゅう」している。
「南鐐」とは高品質の銀貨のことですが、この時代では二朱銀のことを指します。 この二朱銀も純度98%以上です。
さて、この亭主の受け取った5両はどうなったでしょうか。
女房悦べ手まえにも二両二歩
[柳多留.38]
。。。 夫婦で仕組んだ美人局
憎い女房間男に五両遣り
[柳多留.142]
。。。 知らぬは亭主ばかりなり
詫び代が5両だったことは、他の川柳にも登場します。
二疋の首二千疋出してすみ
。。。 男と女の2疋の首が、銭2000疋で済んだとのこと。 銭1疋は10文、2000疋は20貫文で金5両相当。
後家のいろ先年五両出したやつ
[柳多留.20]
。。。 亭主が死ぬとこうなる
●一朱銀
(12,500円)
一朱銀座頭壱分が礼を云ひ
[柳多留.110]
文政12年(1829)、新しく一朱銀が発行されました。手触りは一分金と似ていますが、価格は4分の1です。
一朱はおよそ銭400文、あんまの代金は48文。8人分のあんまの代金を一朱銀で支払ったのでしょうか。眼の不自由な座頭は一分金と思い込み、過分な報酬にたいそうなお礼をします。
●一分銀
(5万円)
小人島鳥居の額に一歩銀
[柳多留.164]
一分銀が最初に発行されたのは天保8年(1837)。 『俳風柳多留』の初編が発行されたのは明和2年(1765)ですから、そのずっと後。
「ガリバー旅行記」は知られてはいなかったでしょうが、一分銀が小人の国の鳥居の額にぴったりと想像しています。
(余談ですが、この額縁のような一分銀、表と裏に20個ずつの桜の模様がありますが、この桜の模様の上下が逆になっているのが表と裏で1つずつあり、その位置が天保一分銀・安政一分銀・明治一分銀を識別するシークレットマークになっています。)
●一文銭
(1枚で30円)
文銭の裏は
吝
しわ
いといふ文字
[柳多留.159]
寛文8年(1668)より発行された寛永通宝には、裏の上部に「文」を入れ、表の上部の「寛」と合わせて「寛文」と読みます。
一文銭としては上出来なのですが、お上にケチをつけたがる江戸っ子、文とその下の四角の穴を合わせて「吝い(しわい)」と読んでしまいます。
七軒で七文が売るなずなうり
[柳多留.16]
お正月の七草粥に使うなずな売り、「なずなー、なずなー」と売ったそうです。売れても1軒で1文です。老人や子供の小遣い稼ぎになったようです。
●寛永通宝 四文銭
(1枚4文で120円)
そこが江戸水一はいを波でのみ
[柳多留.70]
明和5年(1768)、新たに寛永通宝4文銭が発行されました。
砂糖水の中に寒晒(かんざらし)の団子を入れて、「冷やっこい冷やっこい」と呼んで売った氷水1杯が4文でした。寛永通宝4文銭には裏に「波」の絵があり、「水を波で飲む」と駄洒落たしだい。
常磐
ときわ
ほど連れて八文湯屋ふくれ
[柳多留.132]
4文銭が発行されると、6文だった湯銭は、8文に便乗値上げされました。値上げに抵抗する主婦は風呂に行くとき、幼い子達を全部連れて行くことにします。子供の料金までとれず、湯屋はふくれています。
「常磐」は源義朝の妻で義経の母、戦に破れて幼い今若・乙若・牛若の三人の子を連れて逃れようとした女性です。
夕立に困つて下戸も一二文
[柳多留.38]
にわかの夕立にあい、あわてて飛び込んだのが酒屋。下戸で飲めないのだが、しかたなく、酒を注文します。この頃、最も安い酒が1合12文でした。しばらく雨宿りしていたのですが、
本降りになって出て行く雨宿り
[柳多留.初]
●仙台通宝
(一応1枚1文で30円)
銭でさえ角のあるやつはじかれる
天明4年(1784年)、天明の飢饉に苦しんだ仙台藩は領内でのみ通用する1文銭「仙台通宝」を発行しました。 円形ではなく、角がある鉄銭でした。
仙台藩領内でのみ通用するはずでしたが、他の国にも紛れ込み、いやがられました。
撫角
なでかく
を伊勢屋六枚入れてやり
大商人でも、寛永銭100枚のうち6枚くらいは仙台通宝を紛れ込ましていた、とのこと。
●天保通宝 百文銭
(3000円)
気の早い折助当百のさしを売り
[梅柳.11]
「さし(銭緡)」は、寛永通宝を100文(実は96枚)束ねる細い藁のさしです。天保6年(1835)に天保通宝が発行されると、天保銭用にと、太くて長いさしを作って売り始めましたが、天保銭100枚では、3キロ近くあります。とても実用にはならず、売れた気配はありません。
「折助」とは、武家に奉公する仲間(ちゅうげん)のことです。 さしは折助の内職で作られていました。
九十匁
くじゅうめ
も
廿四文
にじゅうしもん
も同じゆめ
[柳多留拾遺.8]
現代語に翻訳すると、
27万円も720円も同じ夢
となります。 ・・・ 女郎の値段です。
参考文献
山路閑古、「古川柳」、岩波新書、1965
阿達義雄、「男と女の川柳貨幣史」、『増刊歴史と人物.江戸の二十四時間』、中央公論社、1980
藤枝ちえ、「江戸川柳にみる世相とお金」、『歴史読本臨時増刊.お金の百科事典』、新人物往来社、1974
興津要、「深訪.江戸川柳」、時事通信社、1990
神田忙人、「江戸川柳を楽しむ」、朝日選書、1989
藤田良実、「江戸川柳.庶民の四季」、秦流社、1995
花咲一男、「川柳江戸歳時記」、岩波書店、1997
鈴木昶、「川柳江戸八百八町」、東京堂出版、1995
山澤英雄校訂 「俳風柳多留」、岩波文庫、1995
2004.1.10 2020.10.24改訂