永楽通宝の謎

明の永楽通宝
明の第3代皇帝成祖永楽帝(在位1403~1424)が発行したものです。
貿易専用の貨幣だったとの説があります。
24.5mm 3.8g


 ●なぜ永楽通宝は嫌われた?
 
 禁 制
一 錢を撰ぶ事
 段錢の事は、往古の例たる上は、撰ぶべき事もちろんたり
 と言へども、地下に宥免の儀として、
 百文に永楽・宣徳の間廿文あて加へて、可収納也
一 利錢并売買錢事
 大小をいはず、永楽・宣徳においては、撰ぶべからず
 さかひ錢と洪武錢なわ切の事也・うちひらめ、
 この三色をば撰ぶべし
 但如此相定らるるとて、永楽・宣徳ばかりを用べからず
 百文の内に永楽・宣徳を丗文を加へて使ふべし

    文明十七年四月五日
              大炊助在判弘興

 右の「禁制」は、文明17年4月15日(1485)に山口の大大名大内氏が発布した有名な撰銭令です。 この頃、永楽通宝は他の渡来銭(唐銭、宋銭など)に対して嫌われたため、銭100文のうち20~30文は嫌がらずに使え、というお触れです。
 品質は決して悪いものではありません。なぜ嫌われたのでしょうか。
 渡来銭は12世紀末より、南宋・元などから輸入されたものですが、貿易相手の南宋・元の銭は少数で、既に滅亡していた唐・北宋の銭が主体でした。 つまり日本では、既に『古銭(ふるぜに)』となっていたものを輸入していたわけです。 (『古銭』といっても、中国でも現役として使用されていました。) この状態はその後200年以上続きました。
 ところが15世紀初頭、明の永楽帝は新たに日本への輸出用としての銭「永楽通宝」を鋳造しました。 これまで長年『古銭』に慣れ親しんでいたところに、突然見慣れない『今銭(いまぜに)』が大量に登場したのです。 おそらく鋳造した直後で、光耀いていたと思われます。
 当時の日本人が、突然大量に出現した『今銭』に戸惑い、そして、”これは銭ではない”と嫌ったとしても不自然ではありません。



 ●なぜ永楽通宝は好まれた?
決めた人永楽銭1枚の価
永禄8(1565)伊勢大湊ひた7枚
永禄12(1569)小田原北条氏精銭3枚
天正5(1577)小田原北条氏精銭2枚
天正12(1584)駿河徳川氏鐚銭4枚
慶長7(1602)江戸徳川氏ひた6枚
慶長13(1608)江戸幕府鐚銭4枚
ひた、精銭、鐚銭は、永楽銭以外の渡来銭または、
できの悪い銭のことと思われます。
 大内氏の撰銭令から100年あまりたったころ、特に東国で永楽通宝が異常に好まれていました。
 永禄8年(1565)伊勢大湊の「船々聚銭帳」には、港の税金を納めるお金で、永楽銭1枚は”ひた7枚”に値するとの記述があります(この『ひた』がビタ=鐚の言葉の初出とされています)。
 その他にも、右の表のように東国の大名たちが永楽銭の価値を他の渡来銭より高く評価していた記録があります。
 平成7年11月、東京都調布市の下石原3丁目で工事中に大きな甕が見つかり、その中に10027枚の渡来銭がはいっていましたが、その内の7560枚(75%)が永楽通宝でした。 ここは戦国時代後期、小田原北条氏の領域だったところです。
 また、壱岐島郷の浦(長崎県)で出土した渡来銭は、4165枚中なんと3827枚(92%)が永楽通宝でした。
 異常な人気については理解しがたいものがあります。
 この過激な人気は、永楽通宝の渡来が途絶えて100年近くたっています。 輸入品に頼れない以上、日本で作らざるを得ません。 このころ民間で作成した銭を古銭用語で「鐚銭(びたせん)」と呼びますが、決して出来が悪いものではありません。 

日本製・加刀鐚永楽 垂足宝
明銭の書体を、日本で加工しています。繊細な字で、宝の最後の足が垂直に降りていますので、「垂足宝」と呼ばれています。
24.6mm 3.3g
日本製・鐚永楽 正様 母銭
日本で本格的ににつくるため、銭の型を作るための銭(母銭)として作られたもののようです。きめ細かい銅質で、字画や輪・郭が丁寧に仕上げられています。
24.2mm 2.6g
日本製・中正手永楽 俯貝宝
通常の永楽通宝とは少し書体が異なります。 僧中正の書になるものに似ているからと、「中正手」と呼ばれています。 宝字の尓の横引きの最後が跳ねているのも特長のひとつです。
24.6mm 2.8g


 ●なぜこんなに小さい永楽通宝がつくられたか?
 銭を作るとき、型を作った元の銭に比べると、出来上がった銭は約0.4mm小さくなります。さらにそれを元にすると、さらに小さくなります。それを繰り返すと、どんどん小さいものができあがります。小さくなるにつれて、穿(穴)の形状は大きくなったり、丸くなったりし、また背夷慢(裏が平坦)になったりします。
 原理的にはどんな銭銘の銭にもありそうですが、実際にこれまで段階的に小さいものが残っているのは永楽通宝だけです。


日本製・だんだん小さくなる鋳写鐚永楽
左から 24.0mm 3.7g / 23.2mm 1.9g / 22.0mm 1.9g / 21.2mm 1.5g / 19.9mm 1.6g



  明銭の永楽銭関東に多き訳ハ?
 大石久敬の『地方凡例録』の中に「明銭の永楽銭関東に多き訳ハ」とする一節があります。 それによりますと:
 応永10年(1403)8月、唐船が相州三崎に漂着しました。
 その船の中に数千貫文の永楽銭があり、これを接収した鎌倉の管領足利満兼が、「若干の永楽銭を徒らに費やすべからずとて、法を定めて之を用ゆ」として、永楽銭の流通が始まりました。
 その後、天文19(1550)年の頃、「関東の諸民鐚と云悪銭を鋳出し、永楽銭に交へて同じ直段に用い」たのですが、良銭と悪銭が混合し、トラブルが多発しました。
 天文の末に北条氏康が関東を制覇したとき、「鳥目は品々あれども其位永楽銭に及ぶものなし、由て自今関東は永楽銭を用ひ他銭を禁ずべし」としました。
 天正18年(1590)に徳川氏が関東に来たときも永楽銭を用いていましたが、鐚をなくすこともできず、慶長9年(1604)正月に、「悉く永楽銭を用ゆ、然れども一向鐚を棄るにもあらずとて、他銭4銭を以て永楽一銭の代りにすべし」と決めました。永楽銭1枚=鐚銭4枚ということです。
 ところがその後慶長11年(1606)12月、「商民の難儀に及ぶ由に付、永楽銭を停止し、鐚ばかり用ゆべし」としましたが、その後結局永楽銭も鐚銭も同じ価値で使われるようになりました。
 これが永楽銭が関東に多い訳だと説明しています。(もっとも、筆者も書いていますが、永楽銭の発行は1411年のことなので、先頭の唐船の話は矛盾があります。)
 【引用文献】:大石久敬著、大石慎三郎校訂『地方凡例録』、近藤出版社、昭和44(原著は寛政6年ころ)

参考文献:
  鈴木公雄、「出土銭貨の研究」、東京大学出版会、1999
2004.2.5