樋口一葉の借金生活

  新しい5000円札と1000円札のモデルは樋口一葉と野口英世です。
  文化的な偉業は周知のことですが、赤貧に苦しんだ樋口一葉と、お金にはまるでルーズだった野口英世です。
  お金の肖像に選ばれたことを、ご本人たちは苦笑いしているようです。



  ●貧乏暮らしの始まり
(日本銀行のHPより)


 樋口一葉の父、樋口則義は山梨県塩山の中農の出。安政4年(1857)、近所の娘多喜と駆け落ちして江戸へ出ます。努力して南町奉行所の同心株を買い、30俵2人扶持の幕臣となります。
 幕府崩壊後も警視庁に勤めながら、金融・不動産業で財をなします。
 明治20年、思い切って退職し、荷車請負業組合を設立しましたが、あえなく失敗、すべての財産をなくし、明治22年(1889)7月失意のうちに没しました。これが樋口家の貧乏暮らしの始まりです。
 樋口家は、母、一葉、妹の女性3人の家族になりました。 一葉(本名、奈津、なつ、夏子)、満17歳のことです。

  ●家のうちに金といふもの一銭もなし・・・
 一葉の日記の中には、家にお金がないこと、人から借金をしたことが毎月の様に書かれています。 特に明治25年後半からが顕著です。
 ■晴天。「我家貧困、只せまりに迫りたる頃」とて、母君いといたく歎き給ふ。此月の卅日かぎり、山崎君に金十円返却すべき筈なるを、我が著作いまだ成らず、一銭を得るの目あてあらず、人に信をかくこと口惜しきとて也。[明治25年8月28日]
 ■晴天。田辺君よりはがき来る。「『うもれ木』一ト先ひとまづ『都の花』にのせ度よし、金港堂より申来たりたる」よし。「原稿料は一葉廿五銭とのこと、違存ありや否や」と也。直に「承知」の返事を出す。母君、此はがきを持参して、三枝君のもとに此月の費用かりに行く。心よく諾されて六円かり来り。[25.10.2]
 ■母君、三枝へ参り給ふ。『都の花』より受とりたる金(25銭×47枚=11円75銭)のうち六円を同君に返へさんとて也。[25.10.23]
 ■曇る。昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし。母君これを苦しみて、姉君のもとより二十銭かり来る。[26.3.15]
 ■晴天。我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道なし。[26.3.30]


 右の地図は明治16年ころの様子です。
 ①本郷区本郷六丁目 明治9~14年(4~9才)、赤門前の法真寺の近くに住んでいた。
 ②本郷区菊坂町 明治23~26年の住い。
 ③本郷区丸山福山町 明治27~29年の住い。一葉終焉の地。
 ( 参謀本部陸軍部測量局、「五千分一東京図測量原図」、
  (財)日本地図センター複製、1984 )

 この地図では③の周辺は殆ど田畑になっていますが、幕末までは旗本屋敷の一帯で、また一葉がここに住んでいた頃は商店街もできていました。

  ●下には下が・・・「三千石のお姫様」
 明治25年暮、『暁月夜』の原稿料として11円40銭を受け取りました。一葉は10円のつもりだったので余分に貰った分を、「いでや喜びは諸共に」と、母が乳母をしていた元2500石の旗本稲葉大膳家のお姫様を訪ねます。「お姫様」は、すっかり落ちぶれています。
5銭白銅貨 (明治26年発行)
 ■柳町の裏やに貧苦の体を見舞ひて、金子きんす少し歳暮にやる。昔は三千石の姫と呼ばれて、白き肌に綾羅りょうらを断たざりし人の、髪は唯かれのヽ薄の様にて、いつ取りあげけん油気もあらず、袖無しの羽織みすぼらしげに着て、流石に我を恥ぢればにや、うつむき勝に、「さても見苦しき住居すまひにて、茶を参らせんも中々に無礼なれば」とて、打侘るぞことに涙の種也。畳は六畳ばかりにて、切れもきれたり、唯わらごみの様なるに、障子は一処として紙の続きたる処もなく、見し昔しの形見と残るものは兎の毛におく露ほどもなし。夜具蒲団もなかるべし、手道具もなかるべし。[25.12.28]
  「綾羅」 あやぎぬとうすぎぬの最高級の衣服
  「袖なし羽織」 普通は老人・子供が着るもので、婦人が着ることは稀
  「兎の毛に置く露」 極めて小さいもののたとえ

  ●小間物屋を開いたのですが・・・
明治13年ころの龍泉町
陸地測量部作、2万分の1東京近傍図
(古地図史料出版複製)
 明治26年8月、一葉一家は小間物屋を開業することにします。場所は、下谷区龍泉町です。開業資金には、一葉たちの着物を売って15円調えました。
 ■晴れ。早朝、二人あきなひあり。物馴れぬほどのをかしさは、五厘の客に一銭のものをうり、一銭の客に八厘のものを出すなど、跡にてしらぶればあきれたる事をのみなすものぞかし。[26.8.9]
 ■おなじく雨。此頃の売高、多い時は六十銭にあまり、すくなしとても四十銭を下ることはまれ也。されど大方は五厘六厘の客なるから、一日に百人の客をせざることはなし。身のせわしさ、かくてしるべし。[26.9.21]
 仕入帳によると、糊、安息香、元結、掃除道具、付木、磨き砂、箸、麻ひも、楊枝、鉄漿(かね)下、亀節、歯磨き粉、ランプの芯、藁草履、卵、せっけん、たわし、蚊遣香、マッチ、簓(ささら)などを売っていたようで、8月の仕入れ総額は33円35銭、9月の仕入れ総額は11円33銭でした。一ケ月に15円の売上があったとして、純益は5円くらいでしょうか。 なかなか、厳しいものです。
 小間物屋で始まった商いですが、そのうちより小額な駄菓子屋になってしまい、さらに近くに同業者が現れ、翌年4月には店をたたみ、本郷区丸山福山町に引っ越しました。

  ●なかには・・・
20銭銀貨 (明治27年発行)
 借金はいつもいつもうまくはゆきません。なかには、「いでや、その一身をこヽもとにゆだね給はらずや」と、”代償”を求めた男もいました。
 ■「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。」[27.6.9]
と、激しく拒絶したのですが、その相手に1年もたたないうちに、
 ■夜ふくるまでかたる。金六十円かり度よし頼む。[28.4.20]
と、借金の依頼をしますが、何のかのと言って貸してはくれず、
 ■誰れもたれも、いひがひなき人々かな。三十金五十金のはしたなるに、夫すらをしみて、「出し難し」とや。[28.5.1]

  ●名声を得ても・・・
10銭銀貨 (明治29年発行)
 明治28年になると、『たけくらべ』、『にごりえ』などを連続して発表、女流文学士として、つとに有名になりました。 しかし、貧乏なことに変化はありませんでした。
 ■早朝、ふみあり。安達の妻より、かねてのかり金催促の趣き。五円計のなれども、いまは手もとに一銭もなし。難を如何にせん。[28.5.2]
 ■「今日夕はんを終りては、後に一粒のたくはへもなし」といふ。母君しきりになげき、国子さまざまにくどく。[28.5.14]
 国子は2つ下の妹。 くどく、とは同じ言葉を何度も繰り返すこと。
 明治29年になると、来訪者や入門者が多くなりましたが、同時に肺結核も進みました。
 ■此月、くらしのいと侘しう、今はやるかたなく成て、春陽堂より金三十金とりよす。人ごヽろのはかなさよ。[29.6.23]
 これが日記の中にあらわれる最後の借金です。
 明治29年11月23日、24歳の生涯を閉じました。


参考文献 :
  前田愛編、「全集樋口一葉」、小学館、1979

2004.6.3