蕪村の四季




燕の刀幣
  易水にねぶか流るる寒さかな
 燕の荊軻、攻まり来る大国秦の王(後の始皇帝)を暗殺すべく、燕の国境易水を出発します。 友人の高漸離が筑を撃ち(琴を弾き)、荊軻が歌います。
    風は蕭蕭として易水寒し
    壮士一たび去って復た還らず
 『史記・刺客列伝』の名場面です。 

漢の八銖半両
  石公せきこうへ五百目もどすとしのくれ
 張良も始皇帝の暗殺に失敗したひとりです。 あるとき、不思議な老人黄石公の沓を拾わされたことが縁で太公望の兵書を授かり、漢の建国に功績をあげ、諸侯とまでなりました。
 一貫目借りたのだが、拾った沓は片足なので、半分の五百目返済でよしとしよう、と勝手な屁理屈です。

  畑うちや法三章のふだのもと
 漢の劉邦は、秦を滅ぼすや、これまでの複雑な法を総て廃止し、単純な3つだけにしました。
    「殺す者は死罪、傷つける者は罰す、盗む者は罰す」
 そのシンプルさに卓越した才がうかがえます。 相次ぐ戦乱も終わり、農民たちは安心して農作業に励むことができました。
 ただし、経済政策には無頓着で、劣悪な貨幣が横行し、大インフレを引き起こしました。 右の半両銭は、劉邦の没後に皇后の呂后が発行したものです。


延喜通宝
  場面は一転して、平安時代の日本です。

 いまだ夕暮れにはとほきほどしづやかなりけるを、春雨のふりきてにはかにかきくらし、滝口の陣に「御明みあかしをく」と呼ぶ声し、たつけはひあり
  滝口に燈を呼ぶ声や春の雨


渡来銭
  銭亀や青砥あおともしらぬ山清水
 青砥左衛門藤綱は13世紀の鎌倉武士です。 鎌倉の滑川で10文を落とし、人足を雇い松明をかざし、やっと探しあてましたが、その費用に50文もかかりました。 「太平記」で有名な話ですが、この行いには賛否両論。
 さすがの青砥さんも、この山奥の山清水に潜む銭亀まではご存知あるまい、との連想の妙。

小粒(豆板銀)
  お手討の夫婦めをとなりしを更衣ころもがへ
 東海道筋の小さな城下町、さほど大身ではない武家に奉公する若い中間、主人の遠縁の娘といい仲になってしまいました。 烈火のごとく怒った主人に手討にされそうになりましたが、奥方のとりなしで命だけは許され、二人は江戸に出て世帯を持ちました。 冬から春にかけて苦しいときもありましたが、日夜働いたおかげでいくばくかの蓄えもでき、人並みの衣替えを迎えられました。 秋には子供も生まれそうです。

元文一分金
        梅さいて帯買ふむろの遊女かな  


 播磨室津は奈良時代からの港町です。 江戸時代も本陣を構える海の宿場町として栄えました。 当然遊女も多くいました。
 遊女たちが、呉服商人の前で帯を選んでいます。 キャーキャーと嬌声が聞こえます。 室の遊女たちに暗さはありません。

寛永通宝
  ねぎ買うて枯木の中を帰りけり
 葱(ねぎ、ねぶか)は冬の鍋物にはなくてはならぬものです。 一束の葱を買い、家路を急いでいます。 家には妻と子たちが待っています。 途中枯木の中を通りますが、枯木の色と、葱のみずみずしい緑が対照的です。
 葱一束は、10文くらいのものでしょうか。 四文銭は蕪村53才のとき発行されました。

  銭かうて入るやよしのの山ざくら
 吉野は山桜で有名です。 花見に行くには、茶店代や数多い寺々への賽銭に小銭がいっぱい必要です。 金貨・銀貨を銭に交換してから、山に入ります。
 「銭を買う」の表現に現代人は驚かされます。

寛永通宝 百文差し(一緡)


   
 一軒の茶見世の柳 老にけり
 茶店の老婆子らうばす われを見て慇懃に
 無恙ぶやうを賀し かつが春衣を
 店中に二客有り よく江南の語を解す
 酒銭三びんなげうち 我を迎へたふを譲つて去る
  

 故郷への旅の途中、茶店に立ち寄る。 店には2人の先客があり、大阪弁での会話がはずんでいる。 2人は300文の酒代を置いて、「あんさん、こっちおいなはれ」、と席を譲ってくれた。 榻(たふ)とは、茶店用の四脚台。
 春風や堤長うして家遠し、で始まる 『春風馬堤曲』の一節です。
 昼間の酒代に300文は多すぎる、とはいうなかれ、一軒・二客・三緡の数列が隠されています。


参考文献
  「要説 芭蕉・蕪村・一茶集」、日栄社、1968
  「新潮日本古典集成.與謝蕪村集」、新潮社、1979
  高橋治、「蕪村春秋」、朝日文庫、2001
  関野準一郎版画、「芭蕉・蕪村・一茶の旅」、文春文庫ビジュアル版、1986


2004.9.20