『柏崎日記』

  伊勢桑名藩は有数の親藩で、本領の伊勢の他、越後柏崎にも飛び地を持っていました。
  この桑名藩に、渡辺平太夫(56才)と勝之助(38才)の親子がいました。 平太夫は10石3人扶持の御米蔵の算用係、勝之助は5石2人扶持の下横目で、ともに下級武士です。親子とはいっても勝之助は平太夫の甥で、養子です。 勝之助には妻菊(29才)と、長男鐐之助(4才)と長女ろく(赤ん坊)がいました。  平太夫は孫の鐐之助をことのほか可愛がっていました。
  天保10年、この勝之助に柏崎陣屋の勘定人8石2人扶持の辞令がありました。柏崎への転勤です。
  平太夫は鐐之助を桑名に置いていく様に頼みました。 勝之助は養父の願いに逆らえませんでした。
  その代わり、お互いの家族の様子や、気候、買い物、町の出来事などなどを手紙で知らせあいました。手紙は平太夫がなくなるまでの10年間続けられました。現在これらは、「桑名日記」、「柏崎日記」として残されています。
                  ┌鐐之助(4)
    平太夫(56)   勝之助(33) ├ろく(1)
     │       ├────┼真吾
     増(50)     菊(29)  ├りん
                  └行三郎   ( )内は、天保10年での年齢です
 (テキストは参考文献①を使用しましたが、一部読みやすくしたところがあります)

天保10年の伊勢暦 294×96mm
渡辺勝之助が桑名を出たのはこの年の2月24日のことです。
この暦によると、この年の春分の日は2月10日でした。
● 柏崎の生活
 渡辺勝之助が、妻のお菊と乳飲み子とともに桑名を出たのは、天保10年2月24日のことです。
 柏崎では馴れない寒さと、諸色(物価)の違いにびっくりすることがありました。
 ■明け方より大吹雪なり。商人杯は一人も不来こず、寝ても起きても大根汁に大根葉漬ばかりなり。昨日牛蒡ごぼう人参こんにゃく杯守りに買ひに遣し候処、いづれも高き事桑名の倍の値段。土芋も1升55文、小人参20本ばかりにて125文なり。こんにゃくは御地(桑名)より少し大形也、代45文。部屋の小窓より雪吹込み、寒き事野原の如し。 [天保10.11.25]
 ■昨日しじみ売に参る。是は珍敷めずらしきとて値段をきく1升130文、びっくり仰天、桑名なら4文か5文にて買はれるものにて、お菊ふつふつくどき申候。 [天保12.5.20]
 ■人別扶持に相成、雑用勤て今日請取申候3人前、1朱と360文也。お菊に相渡す。是で1ケ月まかなふ様申候へば、困った顔をして居り申候。 [天保10.10.27]
 このころ、金1両は6800文くらいでしたから、1朱は425文です(1両=4分=16朱)。1ヶ月の生活費として、わずか1朱と360文を渡された妻の当惑ぶりが想像されます。

 現代との価値の比較は単純ではありませんが、とりあえず
     1両=20万円、1分=5万円、1朱=12,500円
     1文=30円
として読んでみてください。

 通常町の商店で買い物をするときは、現金を払いません。 「かけ」(つけ)で買います。 そのかけは、年の暮れに商店が集金に来ます。この支払いを「払い方」といいます。50軒の店に10両以上のつけがあったようです。
 ■可なりの天気。借銭払い方に心配致し候処、夕方までに無滞とどこうりなく相済安堵也。平日小使銭に困り入り候に付、豆腐1丁、箸1ぜんまで皆かけに致し置候故、当暮別て多く凡50軒ばかり也。 [天保14.12.27]
 ■昼前払い方半分余相済、昼より助番にて、払ひ方お菊に渡し、罷出七ツ頃帰り候処、不残のこらず相済大安堵仕候。惣〆大凡13両余に相成申候。 [天保10.12.28]

天保通宝
天保6年より発行された100文銭
(ただしこの品は、明治に佐渡で発行されたもの)
22.2g,49.2×32.5mm

● たまにはご馳走
 大晦日の食事は、豪華だったようです。
 ■九ツ半頃(午後1時ころ)料理出来上り、家内4人相揃ひ目出度年取申候。料理は平のつぺい、芋こんにゃく、牛蒡焼、豆腐、するめ、皿になます塩引、汁、大根香の物1、酒の肴は煮〆、品数平と同断、数の子、酢ごぼふ、煮大豆、切干のしたし物、右の通り也。[天保10年大晦日]
 下女も同じ膳にしたところ、下女は”両手振り立大悦び”しました。

 ■小吹雪さむし。三島より鹿売参り、詰所の縁がわにて頭足1本大勢して分け候。同役江崎、高原、吉田、竹内、私5人にて600文分取り候。頭足1本分2朱也。いつもより大に下値也。夜になり5人して酒のみ年忘れいたし候。[天保12.12.12]
 鹿の頭足を1本買って5人で酒宴です。さすが越後、豪快な忘年会です。

●遊び
 ■今日は相撲見物御陣内にこぞって行。当所相撲見物は、はなはだ乙甲おっくうのことにて酒肴重箱を持ち行。木戸銭共に2朱或は1朱もかかり申候。木戸銭120文也。[天保12.6.22]
 陣屋には御勘定頭以下、50~60名の藩士が勤めていました。その殆どは勝之助同様の下級武士です。

 ■大暑休日故土用見舞いに出て昼頃までに帰る。今日丑の日故塩湯治と申て老若の男女皆浜へ参り候。[天保13.6.24]
 「塩湯治」は海水浴のことらしいです。もちろん無料でしょう。

桑名藩柏崎通用札
天保元年発行
表:金壱歩分、米壱斗五升、引替所
裏:桑名、御蔵役所
164×50mm
金1分は銭1700文くらいです

● お米の値段
 右の札は、天保元年に柏崎通用札として発行された桑名藩札です。額面は米1斗5升、金1分となっています。1両=米6斗の計算です。
 柏崎の陣屋では、年貢として納められた米を商人に売却しました。その値段をきめるのが入札(いれふだ)です。最も高い金額をつけた商人に落札しました。
 ■月並入札立合に出申候。28俵5分落札金子九兵衛、桑名とは10俵程安く御座候。[天保13.4.1]
 10両建ての俵数と思われます。俵数が多いほど安価です。桑名では20俵くらいだったようです。
 「俵」の大きさが4斗に統一されたのは明治になってからで、このころは地域によって1/3~1/2石の差があったそうです。柏崎での大きさは不明です(桑名藩は、4.3斗か?)。28.5俵は10~14石になります。
 ■米値段日々上りこの節20俵余のよし。[弘化2.9.4]
 渡辺家では、夫婦と子供2人(と下女)で、年間15~16俵必要としたそうです。しかし、日記には米を買ったことは書かれていません。給金として支給される扶持米(2人扶持=3石)で大半は賄ったと思われます。


酒1合札
安政4年発行
152×42mm
民間の酒屋さんが発行したものと思われます。
発行場所は不明です。
● つきあい
 ■おゆき夕方歳暮に大豆1升持て参る。数の子晩茶ばんちゃ大概出し仕廻ふ。
  お向よりこんにゃく2枚、江戸みかん10、干ぴょう1わ被下くだされ、内より酒札2升、数の子1斤、茶1斤、鼻紙50上る。
  おゆきの所へ2朱と晩茶1斤、数の子1斤、酒札2升、
  藤岡へこんにゃく2枚、大豆1升、
  大竹へ200文分半紙、扇1本、数の子1斤、
  おさとの所へ2朱と数の子少々、
  角平に酒札1升、
  隣の小林にて昨夜産有之、女子出生に付酒札2升遣す。
  部屋親方市平200文、
  宇之助へ300文、
  医者に2朱づつ2軒遣す。[天保13.12.28]

 実にいろんなものがお歳暮になっています。もらいものの大豆1升とこんにゃく2枚は、その日の内に別の家へのお歳暮にしています。「酒札」とは、現代の「ビール券」みたいなものでしょう。
 渡辺家のお隣は付き合いが22~23軒もあり、1年に3度~5度の客入用の合計が60~70両になることもあったそうです。
 (ところで、ここに出てくる部屋親方の市平さん、4年後に出奔しています。傾城買に御蔵の米・炭を使い込み、また町方で3、40両の借金をしていたそうです。)

 ■快晴。お弓の母歳暮にこんにゃく3枚持て参り、移りに数の子1袋遣す。お弓の給金2朱も遣す。母大悦致候[天保14.12.26]
 お弓は下女です。金2朱は半年分の給金でしょうか?
寛永通宝
上、銅銭3.1g,22.1mm
下、鉄銭3.1g,24.4mm
ともに佐渡で発行されたもの
銅銭も鉄銭も1文です

● 労賃など
 ■茶の間の畳去年古物に調ひ此節、誠によごれくさり見苦敷相成、・・・今日は11畳出来る。たたみさし一人也。さし賃45文也。去年までは40文のところ、当年は米値段安き故、諸色高値に相成、さし賃5文上げ申候由、当国は米値段下り候へば諸色は上り候よし。[天保11.11.6]
 なぜ米の値段が下がると諸色(物価)が上がるのか、疑問です。 45文というのは、食事付きでしょうか。

 ■春中紙布にてこしらひ候火事羽織、先日高田表へ紋所縫ひに遣し候ところ、当月始に出来て来る。かげ紋3つ縫賃2朱也。今日当所仕立屋より仕立出来てくる。仕立賃650文なかなかよく出来申候。惣体にて1分3朱余かかり申候。[天保12.5.24]
 火事羽織は、いわば仕事着です。こんなもの、お役所から支給してくれてよさそうなものですが。1分3朱は、約3000文にもなります。

 ■この節防風堀盛り、夥敷おびただしく在郷の子供出て居り、7、80文づつは取り候由。子供の能内職也。[弘化3.2.28]
 子供も立派な稼ぎ手です。

 ■お菊又新町のかヽに被頼たのまれ、踊ゆかた賃仕立取かヽり、昼より夕方迄に大概は出来候様子、半日に70文結構なる仕事也。[弘化3.閏5.20]
 奥さんも、たまにはアルバイトをしたようです。


天保2朱金
天保3年より発行
1.5g,12.7×8.0mm
金品位298
銭850文くらいに相当します
● 天保の改革の余波
 ■去年中きびしき御触れより御陣内女ども皆々つむぎの帯をしめる。お菊もつむぎの帯なくしては何処へも出られず困り切りて居り、小柳形の有る帯一筋売払申候。2分になる。それに2朱足し、島つむぎの帯及昨日調ひ申候。御倹約になり却て当分は困り申候。[天保12.4.18]
 女性の帯は島つむぎに限るとのお触れが出、島つむぎの帯を持っていないお菊は、いっちょうらの帯を売り、それのお金を足して島つむぎの帯を買いました。何とも実情に合わないお触れでした。

 しかし、ご改革の影響でしょうか、諸色(諸式、物価)が安くなったことは大歓迎です。
 ■久し振りにて町を通る。見せへ札下げ2割3割の値下げ致し候。諸式大分安く成候。今日も煙草1玉買ふ。80匁玉と申て60匁ばかり有之、これを185文位の処、130文に成候。豆腐も1丁36文の処段々下げ28文になる。追々貧窮者の世に成り有難き事也。[天保13.9.1]

柏 崎桑 名
野 菜・果 物
大根地大根1本4文
ぬりま(練馬)1本8文
沢庵用1本2文
大根1本3文
漬物干用大根1本4文
かぼちゃ中くらいの1個35文
1個18文
中くらいの1個32文
人参小さいの20本125文(高い) 
きうり1本7文 
なす10個で12文50個で30文
50個で25文(今年は安い)
いも山の芋5、6人分100文
土芋1升55文
芋1本32文
さつま芋1.2貫目100文
くずさつま芋1.5貫目100文
上栗1升70文
かち栗1升130文
5合43文
1個5文 
さ か な
鰯(いわし)大鰯10尾で8~13文
小鰯1篭150文
小鰯400尾170文
大鰯10尾22文
鯛(たい)1尺の80文、90文
大鯛2枚と中鯛1枚で1300文
大鯛1枚と中鯛2枚で1050文
190文
鯖(さば)1.5尺の30~40文 
その他の食べ物
 1俵(1.75斗)300文
赤穂塩1俵(2.3斗)2朱でお釣り200文
豆腐1丁36文だったのが28文に値下げ6丁で100文
1樽(2斗)2800文
1升(=8合)140文
 
こんにゃく45文(高い) 
煙草60匁185文が160文に値下げ 
生 活 用 品
ホヘ(薪)ホヘ400把(1年分)1両 
 7.5貫目入り4俵で230文
ちり紙 1帖30文
キナ8匁、金12両(高い!)
蜜16匁、50文
子供のカンの療治、薬代50文ずつ
陳皮・紅花・きこく・みな4種4包みずつ合計80文
 傘張替え代2本で300文
提灯30文 
細縞1朱と100文金1分3朱
そ の 他
見世物相撲見物、木戸銭120文
馬興行、木戸銭80文
見世物、大人72文、子供48文
大相撲、木戸銭205文
からくり見世物24文が28文に値上り
下女給金2朱(半年分か?) 
綿の打賃 520匁の綿129文
鏡の研ぎ代 64文

 略年表
文政 6(1823) 白河藩主松平定永、桑名へ移封。11.3万石。
天保 4(1833) 天保の飢饉始まる(天保8年まで)
天保 6(1835) 天保通宝発行される。
天保 8(1837) 柏崎で生田万の乱が起きる。 天保金銀発行される。
天保10(1839) 渡辺勝之助、桑名より柏崎に移住。「桑名日記」「柏崎日記」の始まり。
天保12(1841) 水野忠邦の天保の改革始まる(天保14年まで)
天保13(1842) 渡辺家に次男真吾誕生。
弘化 2(1845) 渡辺家に次女りん誕生。2ヶ月後に早世。
弘化 4(1847) 渡辺家に三男弘三郎誕生。 善光寺地震。
嘉永 2(1849) 渡辺平太夫、桑名にて没す、享年65。「桑名日記」「柏崎日記」の終り。
安政 6(1859) 松平定敬(松平容保の実弟)、桑名藩主となる。
元治 元(1864) 松平定敬、京都所司代となる。渡辺勝之助、柏崎にて没す、享年63。
慶応 4(1868) 鳥羽伏見の戦い。 定敬は、大坂→江戸→柏崎→会津→箱館などに敗走。


参考文献
 ①「日本庶民生活史料集成」第15巻、三一書房


2005.6.5