明治維新の記録

 ① 『鎮将府日誌』  (慶応4年8月)
 ② 『東京城日誌』  (明治2年3月)
 ③ 『太政官日誌』  (明治2年7月)
 ④ 『新貨条例』   (明治4年5月)
 ⑤ 『汽車出発時刻及賃金表』(明治5年8月)
 ⑥ 『改定郵便規則』 (明治6年4月)
 ⑦ 『旧金銀貨幣価格比較表』(明治7年8月)
 ⑧ 『小学読本』   (明治7年8月)
 ⑨ 『官員録』    (明治8年9月)
 ⑩ 『旧公債證書』  (明治5年4月)
 ⑪ 『壬申地券』   (明治6年10月)、『改正地券』(明治10年8月)、『地引絵図』(年代不詳)
 ⑫ 『家券』     (明治8年12月)

  ●1 『鎮将府日誌』  (慶応4年8月)  (⇒ページトップ)
 慶応4年4月11日 江戸開城、慶喜水戸に退く。
 5月19日 東征軍は、「江戸府」、「鎮台府」を設置。
 7月17日 江戸を東京と改称。同時に「鎮台府」を「鎮将府」と改称。
 徳川宗家は、慶喜に代わり田安慶頼の3男、徳川亀之助(後の家達)が駿河70万石の大名として存続を許されました。

  ○同五日御沙汰書 (慶応4年8月)
               徳川亀之助
  今般駿河ヘ引移候に付浅草御蔵ニ囲有之候銅
  銕御下渡願出候得共不得其理候ニ付 御間済
  無之依之格別御仁恕之 思召ヲ以テ別紙之通
  被下置候事
  別紙
  今般駿河ヘ引移候ニ付格別之 思召ヲ以テ
   米   三万俵
   金   二万両
  下賜候事

「鎮将府日誌」 第1号  220×150mm、11丁、定価1匁
 9月8日 「慶応」を「明治」と改元。
 9月22日 会津開城。


  ●2 『東京城日誌』  (明治2年3月)  (⇒ページトップ)
 江戸時代の銭、寛永通宝の1文銭は銅銭も鉄銭も1文、4文銭は銅銭も鉄銭も4文、のはずでした。ところが、慶応ころから、素材価値に見合った相場ができてしまいました。これを「増分(ましぶ)」といいます。
 明治政府は、慶応4年閏4月、この増分運用を公的に認めました。
慶応4年閏4月に出された増分運用令
寛永通宝
銅1文銭
12文で通用
寛永通宝
鉄1文銭
1文で通用
寛永通宝
銅4文銭
24文で通用
寛永通宝
鉄4文銭
2文で通用
文久永宝
16文で通用
天保通宝
96文で通用
 このとき、「文久永宝」は16文とされたのですが、この値には異議を申し立てる者があり、それに対して新政府は次の御沙汰を布告しました。

  ○同十八日 (明治2年3月)
    御沙汰書写
  文久銭十六文通用之儀兼テ御布令有之候処近
  来間々通用差支候ヨリシテ自然物価ニモ相拘
  リ下方難渋致シ候由甚以如何之事ニ候以来下
  方ニ於テ異議申立通用差障候者於有之ハ屹度
  可被相咎候条之旨府藩県ヨリ洽ク配下之者共
  ヘ厳重相達候様 御沙汰候事

 「東京城」とは、江戸を東京と改めたときに江戸城も東京城としたものです。「東京城日誌」は、新政府の広報報というより、官軍の宣伝誌のような性格です。
「東京城日誌」 明治2年3月 第9号  220×150mm、13丁


  ●3 『太政官日誌』  (明治2年7月)  (⇒ページトップ)
 慶応4年閏4月、新政府は「貨幣司」を設置し、江戸幕府と同様の二分金、一分銀、一朱銀を発行し始めました。 この中で二分金が新政府の主力通貨でした(金品位は220と低く、しかも規定通りのものは少なく、銀台に金鍍金したものが多く製造されました)。
 発行直後から翌明治2年にかけて、会津藩、福岡藩、広島藩、土佐藩など、この二分金の贋造を行う藩が多くあり、市場にはニセ二分金が蔓延し、ほんものの方が2、3割しかない状態にさえなりました。
 このニセ金に対して、大きく抗議したのは、諸外国です。 とくにロシア国の被害は大きく、函館(当時は箱館)や新潟港の取り締まりをきつく要求してきました。
明治二分金とその贋金
一番左側だけがホンモノで、その他は贋金です。
左から 3.0g 19.4×12.2mm / 3.2g 19.4×12.7mm
/ 2.3g 18.7×11.8mm / 2.7g 18.6×12.0mm
  明治2年7月、政府は箱館府と新潟県に役人を出張させ、その対応に当たらせました。

    ○         箱 館 府
  此度各国公使ヨリ申立之次第モ有之以来贋
  金通用之儀更ニ御厳禁被 仰出諸開港場外
  国人所持之二分金至急取調正贋区別致シ贋
  金之分ハ追而引換ヘ可被遣候ニ付右取調之
  儀北代忠吉ヘ御委任其県へ出張申付候間同
  人申合至急各国岡士ヘ掛合之上期限無遅滞
  夫々取糺可申此肯相違候事
    ○         新 潟 県
  右同文 ・・・

 「太政官日誌」は、慶応4年2月に発刊された新政府の広報誌。 明治10年1月まで続き、後の「官報」につながるものです。

「太政官日誌」 第83号  220×150mm、12丁、定価1匁5分


  ●4 『新貨条例』  (明治4年5月)  (⇒ページトップ)
 慶応4年(明治元年)、会計官判事三岡八郎(後の由利公正)、イギリス香港造幣局の造幣機械を6万両で注文。
 慶応4年閏4月、新政府は「貨幣司」を設け、大阪長堀の貨幣司支署にて、二分金、一分銀、一朱銀を鋳造。
 明治2年2月、貨幣司を廃止し、「造幣局」を置く。 7月には「造幣寮」と改称。
 明治2年3月、参与会計局掛大隈重信らの建議により、新貨幣は円形とし、元(のち円)・銭・厘の単位を採用することに決定。
 明治2年7月、加納夏雄、新貨幣の見本を作成。
 明治3年2月、イギリス人キンドルを造幣首長として採用。
 明治3年11月、1円銀貨を本位貨幣とし、銀貨の本格鋳造を開始。
 明治3年12月、在米中の大蔵少輔伊藤博文、金本位制の採用を建議。
 明治4年5月、『新貨条例』を布告。

「新貨条例」  226×157mm、本文29丁

 本文中には、新貨幣の実寸大のデザインが描かれていますが、みごとなものです。 (下の画像は拡大しています)
 1銭銅貨のデザインはこの直後に改訂され、このデザインのものはごくわずかの試鋳貨のみが残されています。
1銭銅貨
20円金貨

 伊藤博文の建議により金本位制を目指す意図で発布したこの条例ですが、当時の日本の貿易は銀貨中心であり、事実上の金銀複本位制をとらざるをえず、さらには銀本位制に移ってしまいました。


  ●5 『汽車出発時刻及賃金表』  (明治5年8月25日)  (⇒ページトップ)
東京の発車場付近
上の方に「新橋」という名の橋が見えます。
(明治17年2月、参謀本部陸軍部測量局作成)
 明治政府は、東京-神戸間を中仙道経由で結ぶ計画をたて、まずその支線としての東京(新橋)-横浜間を敷設し、明治5年10月15日に本営業を開始しました。 下の時刻賃金表はこのときのものです。

 金額は「円」表示ではなく、江戸時代の金貨の単位「両・分・朱」で示されています。 東京・横浜間の上等料金は金1両2朱ですが、1円12銭5厘になります。
 また、出発時刻が「八字」のように、「時」ではなく「字」と書かれています。
 ともに、維新直後の文書として、味わいのあるものです。

 料金の決め方は割合簡単です。
 東京・品川・川崎・鶴見・神奈川・横浜の各1区間の下等の運賃が金1朱(6銭2厘5毛)です。ただし、品川・川崎間のみは距離が長いので2区間として計算します。
 中等はこの2倍、上等はこの3倍。4歳以下の小児は無料、5~12歳の子供は半額です。
 時刻表もシンプルです。 午前8時から午後6時までの毎時(午後0時と1時を除く)00分に、二つの汽車が東京と横浜を出発し、53分後にそれぞれ横浜と東京に到着します。 1日に9便あったようです。

「汽車出発時刻及賃金表」  364×521mm

 開業翌年の明治6年の1年間の乗客は延べ1,438,417人、料金は44万1千円だったそうです。 1日あたりの乗客数3940人、一人あたりの運賃30銭7厘になります。 かなりな盛況ぶりです。
 後に、料金表が円・銭単位に改められたとき、金1朱は5銭と読み替えられました。 少し値下げでしょうか。


  ●6 『改定郵便規則』  (明治6年4月)  (⇒ページトップ)
 明治3年5月 前島密、駅逓権正(えきていごんのかみ)となり、太政官に郵便制度創設を建議し、郵便制度視察のため渡英(帰国したのは翌年8月)。
 明治4年3月(1871年4月20日) 郵便制度開始。 このときの料金は距離制で、最短の川崎付近までなら書状5匁まで100文、以降5匁ごとに5割増し。 大阪までだと、1500文。 さらに沿道の駅から1里以内なら100文、2里までなら300文などの追加料金。
 明治4年8月 東京・横浜間を48文に改定。
 明治4年12月 料金を下げ、体系を簡素にする。 4匁までの書状、25里以内100文、50里以内200文、100里以内300文、200里以内400文、200里超500文。
 明治5年1月 新貨移行に伴い、100文を1銭と読み替える。
 明治6年4月 距離制を廃止し、2匁以内の書状、市内1銭、市外2銭に改定。

 次の「改定郵便規則」はこのときのもので、実施に先立つ明治6年2月8日に制定されたものです。
「改定郵便規則」  190×120mm 66丁 定価15銭

 このときの駅逓寮頭(えきていりょうのかみ)は前島密ですが、この規則の発行者は、大蔵大輔(おおくらたゆう)井上馨になっています。(なお、当時の大蔵卿(おおくらきょう)は、大久保利通でした)。

  ○内国郵便税之定
 第一 皇国中ニ往復スル書状ハ里程ノ遠近ニ拘ハラズ極南ノ地ヨリ至北ノ国ヘ差出スモノト云ヘドモ総テ左ノ割合ヲ以テ郵便税ヲ可払事
     即チ 目方 二匁以下二匁迄 二銭
        同  二匁以上四匁迄 四銭
        同  四匁以上六匁迄 六銭
     以上皆右ノ割合ヲ以テ目方二匁毎ニ二銭宛相増シ可払事
 第二 市内往復ノ書状ハ前ノ割合半減ノ郵便税ヲ可払事
     即チ 目方 二匁以下二匁迄 一銭
        同  二匁以上四匁迄 二銭
        同  四匁以上六匁迄 三銭
     以上皆右ノ割合ヲ以テ目方二匁毎ニ一銭宛相増シ可払事
 第三 郵便役所及ビ郵便取扱所無之在村江差出ス書状ハ右割合ノ目方ニ拘ハラズ一封ニ付一銭ツヽノ増税ヲ可払事

 また、切手の貼り方も規則に定められています。
 ○郵便ヲ差出ス人ノ心得方
第九十 郵便切手ヲ張リ付ルニハ能ク其四隅ヲ唾ニテ湿シシカト押付ケ容易ニ離レザル様可致
   決シテ切手ヲ水中ニ入レ濡シテ後ニ張リ付クベカラズ 表面ノ形ヲ損ジ裏面ノゴム糊流散シテ離レ易キノ害ヲ可生事

 すでにこのときから「郵便」、「切手」の言葉が使われています。
 一方で、郵便料金のことを「郵便税」、郵便局のことを「郵便役所」と呼んでいます。


  ●7 『旧金銀貨幣価格比較表』  (明治7年8月)  (⇒ページトップ)
 慶応4年(明治元年)5月、新政府は丁銀・豆板銀などの秤量貨幣の使用を禁止。
 明治4年12月、寛永通宝・天保通宝などの旧銭貨の新貨幣との交換を開始。
 明治7年9月、大判、小判、一分銀などの旧金貨・銀貨の新貨幣との交換を開始。

 新貨幣との交換割合は、旧貨幣の金・銀の含有量を精密に測定し、含まれる純金・純銀の量によって決めました。

太政官よりの通達書 明治7年第31号  229×148mm 13丁 1枚定価銭20文

慶長小判 1個10円06銭42

武蔵一分判1個 2円51銭60
慶長金小判 十両量目5兮71262
武蔵一分判
 内 金4兮89514 位千分中金8569
   銀0兮81405     銀1425
             雑0006
 此新貨102円54銭984
 内  76銭912 精製分析料 
  1円03銭593 鋳 造 料 
    10銭255 試験鎔解分析料
 残100円64銭224
元録小判 1個6円86銭57
  一分判1個1円71銭6
  二朱判1個  85銭824
元禄金小 判十両量目5兮71252
   一分判
   二朱判
 内 金3兮22243 位千分中金5641
   銀2兮46724     銀4319
            雑0040
 此新貨69円98銭391
 内 52銭488 費用前ニ同
   73銭147
    6銭998
 残68円65銭758

 本文冒頭には、次のように書かれています。
 今般旧金銀貨幣価格比較表を製シ以テ偏リ天下ニ頒布スル所以ノモノハ 金銀旧貨ノ猶民間ニ散布蔵匿シテ改鋳ヲ得サルモノ少ナカラス 大ニ貨幣の真理ヲ失ヘル事ヲ懼レテナリ・・・・・

 金銀の含有量の測定は、極めて細かく行われています。(「兮」はトロイオンスで、31.1035グラムです)
 明治4年5月の新貨条例では、1円=金1.5g=銀24.26726g と定められていますので、これを元に新貨幣との交換割合を計算しています。

 新貨幣との交換は明治21年12月に終了し、さらに国庫に対する公納も明治32年8月に廃止され、この時点で貨幣としての役割は全く終了しました。
 (この通達書の価格が「銭20文」となっているのは興味深いです。また、「元禄」を「元録」とした誤字があります。)

  ●8 『小学読本』  (明治7年8月)  (⇒ページトップ)
  爰に、種々の、貨幣あり、
  <天保通宝などの図>
  右四品の、貨幣を、銭といふ、幕府、政を執れるときより、今日までも、通用するもの、是なり、
  <小判などの図>
  此五品の、貨幣を、金といふ、幕府、政を執れるとき、通用せしものなり、
  <一円銀貨などの図>
  右五品の、貨幣を、銀貨幣と云ふ、
  <二十円金貨などの図>
  右五品の、貨幣を、金貨幣と云ふ、
  <一銭銅貨などの図>
  右三品を、銅貨幣と云ふ、
  此三種の、貨幣ハ、朝廷の、発行にて、当今の、通用なり、
  小銅銭、一箇を、一厘といひ、十厘を、一銭といひ、百銭を、一円といふ、故に、十二銭半は、金弐朱に当たり、二十五銭は、一分に当たり、五十銭ハ、二分に当たるなり

『師範学校編輯・小学読本』  220mm×151mm 本文36丁


  ●9 『官員録』  (明治8年9月)  (⇒ページトップ)
 慶応3年12月、王政復古のクーデター後、総裁(有栖川宮)、議定(松平慶永ら14名)、参与(西郷隆盛ら31名)の三職制を設置。
 慶応4年1月、三職のもとに、神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法の6科と、制度寮を設置。
 慶応4年2月、科を事務局に再編成するとともに、新たに総裁局を設置し、8局制とする。
 慶応4年閏4月、三権分立の「政体書」を発布。 太政官の中に、立法官(議定・参与からなる議定官)と行政官(神祇・会計・軍務・外国・民部の5行政官)、及び司法官を置く。
 明治2年7月、行政官を民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務・工部・文部の8省に再編成。
 明治4年7月、太政官に太政大臣・左右大臣・参議を置き、神祇・大蔵・兵部・司法・宮内・外務・工部・文部の8省に再編成。 基本的には、この制度が明治18年12月の内閣制度まで続く。

 下の「官員録」は明治8年9月に刊行されたもので、陸軍大将・西郷隆盛、参議・板垣退助らが下野する直前のものです。
「官員録」  154×71mm 本文174丁 定価10銭

  ●10 『旧公債證書』 (明治5年5月)  (⇒ページトップ)
 幕末、日本には300近い「藩」がありましたが、どの藩も多額の債務を持っていました。 年収の3倍を超える債務を持っていた藩も珍しくなかったそうです。
 明治4年7月、明治政府は「廃藩置県」を断行しました。 藩の持っていた統治機能のすべてを取り上げたのです。 その代わり、藩の持っていた債務は政府が引き継ぐことになりました。
 具体的には、弘化~慶応年間の債務は『旧公債證書』で、明治になってからの債務は『新公債證書』で支払われました。
 『旧公債證書』は無利息で50年期限、『新公債證書』は年利4%で25年期限のものでした。

「旧公債證書」 明治5年5月発行 額面25円  238×136mm

諸藩の持っていた負債に対する新政府の対応はおおよそ次の通りでした。

①藩札
   額面ではなく、明治4年7月の相場で評価すると3909万円分ありました。
   それらは、政府紙幣(「明治通宝」)と交換しました。
   交換は、明治12年6月まで行われ、交換総額は2291万円でした。
②旧幕府からの借り金、私的な負債
   3927万円ありましたが、全額切り捨てられました。
③外国への債務
   400万円ほどありましたが、担保物件など支払えられたものの他の280万円を現金(おそらく金貨)で支払いました。
④天保14年以前の負債 ~ 1203万円
   幕府が天保14年に「棄捐令」を出したこともあり、この期間の負債はすべて切り捨てられました。
⑤弘化元年以降慶応4年以前の負債
   『旧公債證書』で支払いました。 支払総額は1097万円でした。
   この証券は無利子で償還期限は50年。 大正10年12月に償還を終了しました。
⑥明治以降の負債
   急を要するものや、少額のものは現金で支払いました。 その総額は759万円でした。
   その他は『新公債證書』で支払いました。 支払総額は1242万円でした。
   この証券は利息4%。償還期間は25年(うち据え置き期間は3年)。 明治29年10月に償還を終了しました。

総額12537万円の負債です。 現代人感覚では数兆円でしょうか。
廃藩置県という荒療治が比較的スムーズにいったのは、新政府が藩の債務を処分したため、藩にとって債務から解放されるという大きな利点があったのも大きな要因でした。
しかし、これでも旧支配者の債務の大半は”事業仕分け”で切り捨てられました。 幕府や旗本御家人の債務は当然のごとく切り捨てられました。 江戸・大坂の大商人の多くは倒産することになりました。


  ●11 『壬申地券』 (明治6年10月)、『改正地券』(明治10年8月)、『地引絵図』(年代不詳)  (⇒ページトップ)
 明治4年12月、東京府下の市街地に地券を発行し、地価の1%の沽券税を課したのが地券の嚆矢。
 明治5年2月、土地永代売買解禁令を公布。
 明治5年7月、全国一般地へも地券を交付(このときのものを「壬申地券」と呼ぶ)。
 明治6年7月、地租改正を行い、従来の地券を回収して再交付(「改正地券」)。地租は地価の3%、村費は1%で、これは収穫の34%に相当し、農民にとってかなりな重税。
 明治10年1月、農民の強い反対運動により、地租は2.5%、村費は0.5%に減額。
 明治19年8月、登記法制定により地券の存在理由がなくなる。
 明治22年3月、地券を公式に廃止。

「壬申地券」
326×222mm
「改正地券」
302×405mm



地価の決め方は、次のとおりでした。(⇒右図参照)

まず、1反(300坪)当たりの米の収穫高を最高で1.6石、最低はこの半分とします。

次に、1石あたりの米の売価を3円とします。
1反あたりの売上金は最高で4.8円、最低で2.4円になります。

次に、米の売上金のうち15%を種籾と肥料代とします。 残りが農家の所得となります。
さらに、農家の所得の30%を地租(所得税)、10%を村入用(村民税)とします。
そして、この地租が地価の3%となるように地価を決めます。

これらから計算すると、
    地価 = 米の売上金 × 8.5
となります。

したがって、1反の地価は最高で40.8円、最低で20.4円になります。
上右の「改正地券」では、1畝24歩(0.18反)が7.168円になっていますが、これは最高に近いものです。


このころ、圧倒的に多数の農家は、地主の土地を借用している小作農でした。 小作農は、この「地租」の他に、これと同じくらいの「地代」を地主に納める必要がありました。 地価の3%の地租は江戸時代より過酷になったところもありました。


 地租改正のとき、田、畑、宅地、川、道などの位置が一目瞭然となるように、地番を付して図示した地籍図を作成しました。これが「地引絵図」と呼ばれるものです。
 下の絵図は、香川県大内郡坂元村(現東かがわ市)のものです。江戸時代には、村高266石だった村です。
 綺麗で緻密な絵図です。間違いを直すときは、小さな紙を上から貼って書き直しています。何箇所にもそのようなところがあります。当時の人の苦労が垣間見れます。
国土地理院
2万5千分1地形図
引田[南西]
「地引絵図」 最長64cm


  ●12 『家 券』  (明治8年12月)  (⇒ページトップ)
 地券は土地の価格だけを表示しています。 土地と同様に家屋にも価格表示が必要だろうとのことで発行されたのが「家券」です。
 ただし、全国的に展開されたわけではなく、近畿地方と中国・四国・九州地方だけに限られたようです。
 明治9年の「諸建物書入質規則並売買譲渡規則」によりその効力をなくしました。
「家券」  469×332mm
裏面の付図


2006.7.14 
2006.11.29 「郵便規則」を追加
2006.12.1 「旧金銀貨幣価格比較表」を追加
2007.2.6 「太政官日誌」を追加
2007.4.7 「東京城日誌」を追加
2007.7.4 「小学読本」、「鎮将府日誌」を追加
2007.9.21 「地引絵図」を追加
2007.9.25 模様替え
2007.11.14 「壬申地券」を追加
2009.10.10 「家券」を追加
2013.9.10  「旧公債証券」を追加