日本の古典文学から


 ● 『万葉集』 巻第十六 ~ 730年ころ
和同開珎 和銅1(708)年発行
■心のつく所無き歌二首
 我妹子わぎもこが額に生ひたる双六の牡牛ことひのうしの鞍の上のかさ [3838]
 わが背子が犢鼻たふさきにする円石つぶれしの吉野の山に氷魚ひをそさがれる [3839]
 右の歌は、舎人親王侍座に令して曰く、もしよる所無き歌を作る人あるときは、賜ふに銭帛を以ちてせむといふ。
 時に、大舎人安部朝臣子祖父すなはちこの歌を作りてたてまつれり。
 すなはちつのれりし物銭二千文を給ひき。
【大意】
 訳の分からない歌2首
 妻の額に生えている双六の牛の鞍の上にはれものがある
 夫が下着にする丸い石の吉野の山に小魚がさがっている
 右の歌は、舎人親王が、訳の分からない歌を作ったものには褒美をやろう、とおっしゃられたので
 安部朝臣がこの歌をつくり、2000文賜りました。
 舎人親王(676~735)は天武天皇の皇子で、「日本書記」の編纂を行った人。
 708年に和同開珎が発行され、都の周辺では貨幣経済が浸透し始めていたころです。 このころの下級官僚の年収が8000文くらいでしたので、2000文は結構なご褒美です。


 ● 『古今和歌集』 巻十八雑歌 ~ 900年ころ
延喜通宝 延喜7(907)年発行
 ■家をうりてよめる   伊勢
  あすか川ふちにもあらぬ我宿もせにかはり行物にぞ有りける

 伊勢は、百人一首にも選ばれた女性歌人。 寛平5年(893)の歌合せにデビューしています。
 「ふちにもあらぬ せにかはり」は、「淵でなく瀬に変わり」と「扶持ではなく銭(に)替わり」の掛け詞です。
 貨幣経済はたいぶ衰えていた時代ですが、家を銭で売る習慣がまだ残っていたようです。


 ● 『土佐日記』  ~ 935年
 承平五年(西暦935年)一月十四日、土佐室津(高知県室戸岬の近くの漁港)でのことです。
 暁より雨降れば、同じ所に泊まれり。船主ふなぎみ節忌せちみす。精進物さうじもの無ければ、午刻より後に、かぢ取りの昨日釣りたりし鯛に、銭なければ、米を取りかけて、落ちられぬ。かかること尚ありぬ。楫取り、また鯛持て来たり。米、酒しばしば遣る。楫取り気色悪しからず。  夜明け前から雨が降るので、同じところに泊まっている。船主さんがお精進する。野菜類がないので、午後からは船頭が昨日釣った鯛で、銭が無いから、船頭に米をやって、精進落ちをされた。こんなことはその後もあった。船頭はまた鯛を持って来た。米や酒をたびたび遣った。船頭の機嫌はいい。
 紀貫之は、土佐からの帰国のとき、銭を持っていませんでした。 船頭さんから鯛を買うときに、米や酒で支払っています。
 貨幣経済の衰えかけていたころで、しかも、都より遠く離れた土佐の漁港です。 銭で買うより、米で買うことが普通だったでしょう。 わざわざ「銭なければ」と断っていることに、かえって不自然さを感じます。



 ● 『源氏物語』 横笛 ~ 1000年ころ
 
 
 ■権大納言ごんだいなごんの死を惜しむ者が多く、月日がたっても依然として恋しく思う人ばかりであった。
  四十九日の法事の際にも御厚志の見える誦経ずきょうの寄付があった。何も知らぬ幼い人の顔を御覧になってはまた深い悲哀をお感じになって、そのほかにも法事の際に黄金百両をお贈りになった。  (与謝野晶子訳)

砂金
 「源氏物語」の成立は、ちょうど1000年前後のことです。 政府発行の皇朝十二銭は、天徳2(958)年の乾元大宝を最後に、日本は貨幣の暗黒時代に突入したころでした。 庶民は物々交換をし、貴族や寺社の大きな取引には、米、絹、金、銀などが貨幣のかわりとして使われていました。
 「両」は、重さの単位で、およそ16g。 「黄金100両」は、1.6Kgもの砂金です。
 庶民とは縁のない金ですが、金1両あれば庶民なら数ヶ月優雅に暮らせました。


 ● 『平家物語』 巻一の五 妓王の事 ~ 1170年ころ
 ■その頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王ぎわう妓女ぎによとて、姉妹おととひあり。とぢと云ふ白拍子が娘なり。しかるに姉の妓王を、入道相国寵愛し給ひし上、いもとの妓女をも、世の人もてなす事なのめならず。母とぢにも、よき屋作つてとらせ、毎月まいぐわつ百石百貫を送られたりければ、家内富豊けないふつきして、楽しい事斜めならず。
現在の「祇王寺」
 

 平清盛は、寵愛した妓王の母親に、毎月米100石と銭100貫を送っていました。 「百」というのは、多いことを示すだけの数字かもしれませんが、普通の人なら銭1貫で1か月生活できた時代です。 大変な金額に違いありません。
 3年後、清盛は新たな白拍子「仏御前」に心を奪われ、妓王たちは捨てられ、家族3人で嵯峨に隠棲しました。 ところがこの後、仏御前も清盛に捨てられ、妓王たちと生活をともにしたそうです。



 ● 『太平記』 巻第三十五 ~ 1250年ころ
 青砥左衛門藤綱は13世紀の鎌倉武士です。 清廉潔白な人物で、鎌倉幕府の奉行を務めていました。
 ある武士が得宗家(執権北条氏)と争った裁判で、得宗家に臆することなく公正な判決を下しました。 その武士が感激して銭300貫文の”お礼”をしたところ、とんでもないことと怒ってつき返しました。
 次の話も有名です。
(クリックすると画像拡大)

 ■またある時、この青砥左衛門夜に入りて出仕しけるに、いつも燧袋ひうちぶくろに入れて持ちたる銭を十文取りはずして、滑川なめりがはへぞ落し入れたりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行き過ぐべかりしが、以つてのほかあわてて、その辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以つて続松たいまつを十把買ひて下り、これをとぼしてつひに十文の銭をぞ求め得たりける。
 【注】 よしさてもあれかし : まあ仕方がない

現在の「東勝寺橋」
 
 夜帰宅途中、橋の上から10文を落としたので、50文で松明を買い、やっと探しあてたのです。 10文落したままにすると天下の損、50文使うと松明屋も儲かり、天下の得、と説明したそうです。
 このころの1文は、次の「徒然草」のところに書いていますが、現代の300円くらいと想定します。
 そうすると、300貫は9000万円、10文は3000円、50文は1万5千円、となります。

 鎌倉の「東勝寺橋」がこの橋とされています。現在ここには、大正13年に造られたアーチ橋があります。


 ● 『徒然草』 第六十段 ~ 1300年ころ
 ■眞乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。
 極めて貧しかりけるに、師匠死にざまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭のあしと定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ふることなくて、そのあし皆に成りにけり。 三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有難き道心者なりとぞ、人申しける。
 【拙訳】 仁和寺の真乗院に、盛親僧都という、たいへん高徳な方がいました。
 たいへん貧乏でしたが、師匠がなくなって銭200貫と一つの寺を相続したので、100貫で寺を売り払い、3万疋(300貫)の財産を手にしました。 それを里芋代と決めて、都の人に預けて、10貫ずつお金をおろして、心行くまで里芋を食べていました。 他に散財することもなく、全てが里芋代になりました。 300貫の大金を全て里芋に使うとはたぐい稀な道心者だ、と皆んなは誉めました。
銭1貫文

 銭1貫文は、銭1000枚。 このころの銭は、宋や元より輸入した銭です。
 お米1石(140Kg)が銭1貫文くらいの時代で、銭1貫文は庶民1家族1か月の生活費になります。 現代人の1か月の生活費を30万円とすると、僧都の300貫は、9000万円ということになります。 大金です。


 ● 吉田兼好の土地売買
 正和2(1313)年、吉田兼好は、六条三位家から山科小野荘の1町歩の田畑を90貫文で購入しました。
 地主となった兼好は、5人の小作人から毎年10石の年貢米を受け取りました。 米10石はおよそ銭10貫文です。 おおきな安定収入です。
 ところが9年後の元享2(1322)年、この田畑をわずか30貫文で大徳寺に売却しました。 何故こんなに安価で売却したのか、理由はよくわかっていません。


2006.11.11   2006.12.29 万葉集を追加  2007.2.7 土佐日記を追加