田沼意次の貨幣改革

Wikipediaより
 ● 田沼意次の登場
 田沼家は、もともと紀州徳川家の家臣でしたが、吉宗が8代将軍となったとき、幕臣となりました。小納戸頭取300石の家柄です(600石との説もあります)。
 意次は、享保19年(1734)吉宗の世子家重付きの小姓となりました。このとき、16歳でした。
 家重が9代将軍となると重用され、さらにその子10代将軍家治の明和4年(1767)には側用人に登用され、遠江相良城主2万石(後に5万7千石)の城主となりました。このころから権勢をふるい、後に「田沼時代」といわれるようになりました。

 ● 田沼意次の政策
 この頃の幕府の財源は、農民からの租税に頼っていました。
 田沼意次は、農業一辺倒の重農主義から、商業を盛んにし、商人からも税金をとる重商主義政策を進めました。
 問屋・株仲間の育成強化、商品作物の栽培奨励、蝦夷地の開発計画、外国貿易の奨励、印旛沼の開拓、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発などなどです。
 鎖国をやめることさえ画策していたとの説もあります。
明和五匁銀
重さ5匁、銀品位は丁銀・豆板銀と同じ460
 江戸時代の貨幣制度は「三貨制度」と呼ばれています。金貨、銀貨、銭貨がそれぞれ独立した貨幣体系で、それらの間は相場で変動していました。まるでひとつの国の中に、円とドルとユーロがあるようなものでした。 江戸の武士は金貨を使うことを好み、大坂の商人は銀貨を使いました。
 金貨と銀貨間の相場を利用した商人の活動もありました。 そのような中で、田沼意次は金貨だけを中心とする貨幣制度を画策しました。

 ● 川井久敬と五匁銀
 このようなときに、田沼意次が目をつけたのは、小普請組頭だった川井久敬です。
 明和2年(1765)、勘定吟味役に登用された川井は、金遣いを好む江戸でも通用しやすい銀貨を提案しました。
 重さを量って使うこれまでの丁銀・豆板銀に対して、重さを5匁に固定した「五匁銀」です。
 五匁銀12枚を金1両に固定することで、銀相場に煩わされず、また銭の代わりとなると説明しました。
 20年間で8.3万両発行する計画でしたが、これは当時の貨幣流通量の0.25%に過ぎず、川井自身も試作品として位置づけていたようです。
 しかも、銀相場が金1両=銀63~64匁に下落したことや、相場と両替で利益をあげる商人たちの抵抗で、広く流通されることはありませんでした。
 結局7年間3万両の発行で中止されました。

寛永通宝当四銭
重さ1.4匁の真鍮質(銅68、亜鉛24、他8)
裏面の21波は、翌年11波に変更されました。
 ● 寛永通宝当四銭
 次に川井が考案したのは、寛永通宝の4文銭です。
 それまでの寛永通宝は、銅の1文銭と、元文4年(1739)より発行されていた鉄の1文銭だけでした。  明和5年(1768)に発行開始された4文銭は、これまで例のない真鍮の大形銭です。裏面に青海波(せいがいは)を描いた斬新なデザインです。発行時には黄金色に輝いていたのではないでしょうか。大量にでてきた鉄の銭にうんざりしていた庶民に歓迎されました。
 ものの値段に4の倍数が多くなりました。例えば、団子は一串に5つで5文でしたが、4つで4文になりました。

川井家の家紋は 

「丸に青海波」

 ● 南鐐二朱銀
 明和8年(1771)、川井は勘定奉行にまで出世しました。
 川井は画期的な貨幣を発明しました。何と、”銀で金貨を作った”のです。
 明和9年(1772)に銀座に命じて作らせた「二朱の歩判」です。 素材には、これまでに例のない南鐐銀(ほぼ純銀)を使用しました。 ただし、「金ニ朱」とはしないで、「以南鐐八片換小判一両(8枚で小判1枚)」と書きました。
南鐐二朱銀
重さ2.7匁、ほぼ純銀
 よく歴史の解説書で、江戸時代の銀貨を「秤量銀貨」と「計数銀貨」に分け、明和五匁銀と南鐐二朱銀を共に「計数銀貨」としていることがありますが、これは江戸時代の貨幣制度を誤解させる説明です。明和五匁銀は計数銀貨といえますが、南鐐二朱銀はそうではありません。銀座で発行した銀の貨幣ですが、制度上は「金貨」の一種です。当時の人は『金代り通用の銀』と呼びました。
 また、この貨幣は「名目貨幣」でした。金2朱に相当する銀の重さは純銀で3匁ですが、この銀貨には2.7匁の重さしかありません。かつて荻原重秀が”幕府の威光があれば、瓦礫を貨幣にすることもできる”と言ったそうですが、この二朱銀はそれと同じ考えの貨幣です。
 当初は抵抗のあった商人や庶民でしたが、日常の支払いに便利なことから、次第に普及してゆきました。南鐐銀であることで、名目貨幣であることも気にされなくなったようです。

 ● 田沼政治の終り
 田沼意次は明和9年(1772)に老中となり、天明3年(1783)には、嫡男意知が若年寄となりました。田沼親子の権勢は絶大なものになりました。
 しかし、天明2年~6年(1782~86)に発生した天明の大飢饉に対して、有効な対策がとれませんでした。 また、商業が盛んになった反面、農村が疲弊し、社会問題が頻発しました。
 そのような中、天明4年(1784)、若年寄だった嫡男の意知が、江戸城中にて旗本に切られて死んでしまいました。
 これまで田沼政治を快く思っていなかった人たちの反発が始まりました。 商業を軽んじる朱子学者たちの反発もありました。 その急先鋒は、後に老中となる松平定信でした。
 天明6年(1786)、将軍家治が病に倒れるとともに、老中を失脚、2万石を減封のうえ隠居謹慎させられました。
 天明8年(1788)、失意のうちに江戸で没しました。69歳でした。 (川井は安永4年(1775)に51歳で没しています)

 ● 田沼意次の評価
 田沼意次は、”賄賂政治”をしたとのことで、現代人には評判は良くありません。
 お金に”潔癖”だった松平定信は彼を激しく嫌い、理想主義的な経済政策をとりましたが、決して成功はしていません。
 (田沼意次と松平定信の関係は、荻原重秀と新井白石の関係に似ています。)
 「田沼=悪人」説は、当時の反田沼勢力の流したデマにすぎないとの説も有力です。
 田沼・川井の発明した当四銭と二朱銀はその後も増産され、新たに「一分銀」や「一朱銀」も生まれました。

丁銀・豆板銀が減少し、二朱銀が大きな位置を占めていることが分かります。 寛永通宝の増加は、当四銭の増加によるものでしょう。

参考文献
 東野治之、「貨幣の日本史」、朝日新聞社・朝日選書、1997
 田口博吉、「近世銀座の研究」、吉川弘文館、1963
 「新体系日本史12・経済流通史」、山川出版社、2002
2008.1.2