琉球王朝の貨幣


(1) 三山時代
14世紀初頭から、琉球は山北、中山、山南の3つの国が互いに抗争し、「三山時代」と呼ばれていました。
このころから、琉球では中国(南宋、明など)からの輸入銭を銭として使い始めました。 日本の「渡来銭」と同じです。
 中山通宝 約18mm
 中山国が発行したものと言われています。 現存十数枚だそうです。
 画像は、東京大学大学院経済学研究科の収蔵品です。

(2) 第一尚王朝時代
3つの国を統一したのは、山南王朝の重臣だった尚巴志で、1429年のことです。
この王朝を第一尚氏王朝と呼びます。
この王朝は、明が明国人の海外通商を禁止したのを契機に、東アジアの中継貿易の振興に力をそそぎました。 明の絹織物・陶磁器、日本の刀剣、東南アジアの香辛料・染料などが主な貿易品でした。


 【第一尚氏】 尚思紹─①尚巴志(1421-43)┬②尚忠(1444-45)─③尚思達[君日王](1445-50)
                      ├④尚金福[君志王](1450-54)
                      └⑤尚泰久[大世王](1454-61)-⑥尚徳[世高王](1461-69)


 大世通宝(だいせつうほう、たいせいつうほう) 4.4g 23.5mm
 初代王の尚巴志の子、尚泰久が発行したものです。
 「大世通宝」は、明の「永楽通宝」の「永楽」を「大世」の変えたものです。
 「通宝」の手馴れた文字に比べ、「大世」の素朴な文字が対照的です。
 世高通宝(せだかつうほう、せこうつうほう) 3.3g 23.0mm
 尚泰久の子、尚徳が発行したものです。
 このころ、王室の後継者争いや有力者の内乱があり、国は乱れていました。
 貨幣の発行も、経済的な意図よりも政治的な意図の方を多く感じます。

1441年、島津忠国が将軍足利義教より琉球国を与えられ、このとき、大隅加治木にて琉球との貿易用の銭の製造を開始したとの説があります。

(3) 第二尚王朝時代
1469年、弱体化した王室を内間金丸がクーデターで倒しました。 金丸は、首里王府の貿易品収蔵庫の長官だった人です。
翌年金丸は尚円を称し、琉球王となりました。 これ以降を第二尚氏王朝と呼びます。


   【第二尚氏】 ┌①尚円(1472-76)─③尚真(1477-1527)─④尚清(1527-56)─・・・─⑲尚泰(1848-79)
           └②尚宣威(1477)


 金円世宝 4.0g 25.6mm
 尚円が発行した貨幣という説があります。
 この王とその子の尚真のころ、琉球は最も繁栄した時代でした。
上の貨幣が琉球銭であるとの確証はありません。 大世、世高の2銭と比べると、製造方法が大きく異なり、また沖縄での発掘例が少ないからです。 尚円の本名の金丸と、銭銘の「金円」を結びつけているにすぎません。 
戦前戦後に発行された『昭和銭譜』や『古銭大鑑』では、鋳地不明とし、宋と対峙した「金王朝」のものではないか、としています。

16世紀ころから、小さな無文銭が発行されるようになりました。 この銭は「鳩目銭」または「鳩字銭」と呼ばれ、数百枚(400~1000枚)を細い縄で通し、結び目に封をして通用されました。 1枚1枚をばらして使うことはなく、常に数百枚の束で使用されていました。 束ねたものは「封印銭」と呼ばれました。
封印銭
画像は、「季刊方泉處」(ハドソン社)を利用しました。
鳩目銭
銭の大きさに大小があります。 時代の変化によるものと思われます。
1.01g 20.3mm / 1.02g 17.6mm / 0.13g 10.0mm / 0.09g 8.3mm



1561年、この地を訪れた明の冊封使郭汝霖は、「貨幣は薄くて小さく、文字はなく、10枚で1文に換える」と報告しています。

(4) 薩摩藩の支配時代
1609年、薩摩の島津氏は3000人の兵で、琉球を襲いました。
長年泰平の暮らしだった琉球王朝は、戦国時代を生き抜いた島津氏の敵ではありませんでした。 琉球は薩摩藩の支配地となります。
薩摩藩の代官(「大和横目」)として派遣された伊地知重陳は、黒糖と欝金(うこん)の専売制を実施し、そのために薩摩で鋳造されていた加治木銭を元に鳩目銭を盛んに製造しました。 1643年に、幕府が寛永通宝以外の銭の鋳造を禁止すると、それはいっそう盛んになりました。
後に、伊地知は苗字を琉球風の「当間」と改めたため、この銭は「当間銭」と呼ばれるようになりました。

その後、日本で寛永通宝が唯一の銭となると、1662年からは、琉球でも「寛永通宝」(「京銭」と呼ばれた)が通用され、明治まで続きました。
加治木銭
寛永通宝

琉球王国は、対外的には明王朝の冊封(さくほう)を受けた国として、独立国の体裁をしていました。
寛永通宝が主役の時代となってからも、唐船(中国船)が入港するたびに、王府は寛永通宝を回収して、蔵で保管されていた当間銭を代替貨幣として放出しました。 これは、日本の属国であるという事実を中国に知られないようにするための隠蔽工作でした。
しかし、このような話があったほどですから、貨幣経済はそれほど浸透していたとは思えません。 1816年にこの地に来たイギリスの軍人ベィジル・ホールは、「琉球には貨幣はない」と書いているほどです。

幕末の1862年、薩摩藩は「琉球通宝」という銭銘の天保銭型と円形の貨幣を発行しました。 これは、幕府に対して、琉球貿易で使うためとして許可を得たものでしたが、実体は九州など本土内でのみ使われるもので、「琉球通宝」が琉球で使われることはありませんでした。

なお、尚王朝は明治まで続きました。

(5) 米軍の統治時代
太平洋戦争末期、米軍は日本占領に備えて軍票を準備しました。 軍票はすべて紙幣で、A円とB円の2種類ありました。 A円は朝鮮半島用、B円は日本本土用でした。
昭和20年6月、沖縄が占領されると、沖縄で日本の通貨が使われることはなくなり、B円の紙幣が唯一の法定通貨となりました。
B円札は、10銭から100円までの7種類あり(後に1000円札も発行)、1米ドル=10B円(=10日本円)でした。
 
米軍発行 5B円札 (昭和20~33)
(GHQは、このB円札を日本全国の法定通貨にしようとしましたが、日本政府の必死の抵抗でそれは回避されました。)
昭和33年9月、B円札は廃止され、アメリカの貨幣が沖縄の法定通貨となりました。 このときの交換レートは、1米ドル=120B円でした。 当時日本本土では、1米ドル=360円の時代でしたので、1B円=3日本円になっていたことになります。
沖縄で日本円が法定通貨に戻ったのは、昭和47年5月のことです。

2002.9.16    2018.7.25 大改訂  2022.3.31 再改訂