1661年6月29日 (寛永十八年五月二十一日) 長崎奉行柘植平右衛門殿は通詞八左衛門を招いて、検使が最近入港の支那船で発見した、オランダの2ストイフェル貨を1個見せ、最近入港の支那ジャンクで発見したが、何国の貨幣であり、その上の印及び文字は何で、価格は銀10匁に何枚であるかと尋ねたので、文字はオランダの州の名ゼーランド、印はその紋章で、30個が日本の銀約10匁に当るオランダの通貨である旨を、商館の書記に日本文字で書かせて、届けさせた。 奉行は、背教者忠庵(元耶蘇会宣教師)に尋ねたところ、我らの言と一致したので、既に入牢させてあった支那人を釈放した。 若しポルトガルの貨幣であったらば、船及び荷物は焼かれ、少なくとも船長だけは斬首、船は貿易を許さず帰港させ、乗組員は永久に日本に来ることを禁じられたであろうという。 そこで通詞や古い日本人従僕たちは、この事件を来航諸船の幹部に通知し、イスパニア及びポルトガルの貨幣、特に十字架の印のあるものは、船が海上にあるうちに、皆集めて火中に投ずるように勧むべきであると言った。 |