富本銭

富本銭の破片と銭笵の破片 (画像合成)

富本銭 (2010.3 貨幣博物館にて)
表と裏は別の個体です。
「富本銭」と呼ばれる日本古代の銭があります。
円形の方孔銭で、上部に「富」または「冨」、下部に「本」または「夲」の文字、左右に七曜の図柄の銭です。
銭銘から、「ふほんせん」、または「ふとうせん」と呼ばれています。
この銭は、江戸時代から知られており、古い銭譜にはしばしば登場しますが、いずれも貨幣ではなく、江戸時代の「絵銭」または「厭勝銭(えんしょうせん、ようしょうせん、あっしょうせん)」として紹介されていました。

朝日新聞 1999.1.20朝刊
ところが、1985年、平城京右京八条一坊の井戸の底から、和同開珎8枚、万年通宝1枚、神功開宝2枚とともに、富本銭1枚が発見されたため、江戸時代のものではなく、奈良時代以前のものと分かりました。 
さらに、1998年、飛鳥池遺跡から、530点にのぼる富本銭とその生産工房跡が発見され、俄然最古の通貨の位置づけとしての議論が発生しました。
この銭を『日本書紀』の天武12年(683)年の
今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ
の一文と関連付ける発表があったのです。
これまで日本最古の貨幣は、「和同開珎」と信じられていたため、これはセンセーショナルなことでした。
新聞では、"最古の通貨は「富本銭」”とか、”「和同開珎説」覆る”と報道しました。

古銭界も、このニュースに驚きました。 『収集』1999年4月号~9月号に、この銭に関する議論が盛んに行われています。 しかし、どの意見もほぼ一様に、「貨幣」であることには否定的でした。 その理由は、存在数が少ないこともあるのですが、それよりもこのデザインにあったようです。
■いくら鋳期が最古であっても、貨幣の形をしていても、吉語銭で七曜文のおまけつきです。こんなデザインを公貨の面文に採択するはずがありません。・・・もう一つ指摘したいのは存在が少なすぎる点です。・・・「富本銭」程度の量で本格的な貨幣制度が成立するわけがありません。 (O氏)
■私は素直に言って、とても貨幣とは思えないのである。・・・根拠は、と言うと実に単純。富本銭は貨幣としての顔をしていないと言う事。(A氏)
■使用目的の第一として従来の厭勝銭類と考える。使用目的の第二として貨幣と考えるならば、新和同銭の稟議銭、見本銭類と考え、流通貨とは考えられない。(K研究会)
■富本銭は和銅元年以前に作られたが、1枚しか出土していない賈行銀銭と同じく、吉祥銭、厭勝銭に類する銭で、庶民が使用した通用銭ではない。(F氏)
■富本銭は左右に七星の絵柄、上下に銭文2字を配している。絵柄と銭文の組み合わせは、絵銭以外の何物でもないと考える。(T氏)

これに対して、奈良文化財研究所の松村氏は、季刊『考古学』第78号(2002年2月刊)で、次のように反論しています。
■銭文に図柄をもつ銭は厭勝銭であるという古泉学の常識が、富本銭の銭文決定時に意識されていたかは疑問である。・・・また、銭文に図柄をもつ銭は厭勝銭であるという常識に拘泥するならば、富本銭が中国のどの厭勝銭をモデルに作製されたかを明らかにする必要があろう。先に見たように、図柄をもつ銭貨を厭勝銭とする先入観や固定観念が、三百年の長きにわたって富本銭研究の進展を阻害してきたのである。
■古和同銅銭の出土量は管見では4遺跡5点に過ぎず、その分布も富本銭同様、飛鳥地域、藤原京、難波京、平城京という律令国家の中枢部に限定されている。・・・古和同銅銭の出土例の希少性や分布域の狭小さを理由に、その通貨としての機能や流通を疑うものはいないのである。

和同開珎は、初期に作られて洗練されていない「古和同」と、後期に大量生産されて洗練された「新和同」に分類されます。
当初はデザインにこだわっていた古銭界ですが、富本銭のできばえが、古和同より新和同に近いことを問題にしました。
■新和同なみとも言える規格化された富本銭の造りが障害になる。  (原点社、『日本貨幣収集事典』、2003)
つまり、富本銭が造られたのは、古和同より後、であると反論しました。

学界の Scholar と、古銭界の Numismatist とが真っ向から対立しています。
うがった見方をすると、
■考古学界の先生方は、旧石器の捏造事件以来肩身の狭い思いをしてきたが、久しぶりにいい研究の糧ができた、と喜ぶ。
■古銭商の方々は、和同開珎が日本初でなくなると、その商品価値が下がってしまう、と嘆く。

この論争、邪馬台国の論争と同じく、決定的なものが発見されるまでは、決着がつきそうにありません。

  2014.9.14   2021.7.30改訂