徽宗皇帝

 北宋第8代皇帝徽宗
 1082年生、1135年没
 在位は1100~1126年
(図はWikipediaを利用しました)

崇寧通宝 当十銭 10.5g 34.2mm
 徽宗皇帝は、北宋第8代の皇帝。 元符3年(1100年)に20歳で即位。
 この皇帝、ことのほか芸術を愛し、全国から書画骨董を集め、宮廷で芸術家を育てるなど、文化の保護に力を入れました。
 また、自らも書と絵に堪能でした。
 書では、「痩金体(そうきんたい)」と呼ばれる書風を創始しました。 細くて、硬くて、力強い線でかかれ、金属的な印象の独特の書体です。 この当時発行された「崇寧通宝」、「大観通宝」はこの皇帝の書です。
 絵画では「院体画」を完成しました。 院体画は唐の玄宗の時代に起源する宮廷画風で、花鳥山水を写実的で微細に描くのが特徴です。
 日本に伝わる『桃鳩図』は、足利義満、井上馨などの所有を経て、現在個人蔵ながら国宝指定です。

国宝『桃鳩図』
 しかし、政治には熱心ではなく、豪奢な生活に明け暮れました。
 何しろ、皇后、妃などおそばの女性が、名前が判明しているだけで166人、生まれた子供が男女それぞれ35人。
 これら自らの奢侈のために増税するなどの悪政が盛んで、民衆の反乱も続発。 中でも「方臘の乱」や『水滸伝』のモデルにもなった「宋江の乱」は有名です。
 国内が乱れたところに、北から遼が侵略。 金の援助を得て何とか撃退したものの、今度はその金が侵略。 責任をとって退位し、帝位を皇太子(欽宗)に譲ったものの既に遅し。
 靖康元年(1126年)、金軍は首都開封を陥落させ、徽宗は欽宗らと共に金に連行されました(靖康の変)。 この時、共に徽宗の妃や皇女、女官、宮女たち数千が、金軍の慰安用に北に連行されました。
 徽宗は、紹興5年(1135年)、五国城(満州の北部)にて54歳で没しました。


崇寧通宝 小平銭 3.5g 24.0mm
大観通宝 小平銭 3.5g 24.1mm

 2021.4.13