飯田二分金騒動(チャラ金騒動)

本物の二分金
3.0g 19.4×12.2mm
偽の二分金
2.3g 18.7×11.8mm

 幕末、日本貨幣の中心的な役割を果たしたのは、「二分金」でした。 1両小判の半分の価値のある長方形の金貨です。
 お米1石が5~6両、大工さんの3日分の賃金が1両くらいの時代です。 二分金1枚は、私たちの感覚では2万円くらいでしょうか。
 維新の動乱の中で、殆どの藩は財政的に苦しいものでした。 この二分金は、偽金つくりにはうってつけでした。 長方形の真鍮の板に、刻印を打てばいいのです。 幕府が健在なころは偽金つくりは重大な御法度でしたが、幕末になると藩ぐるみで偽金を作っているところもありました。 薩摩藩や会津藩が有名です。
 偽二分金は上の画像でもわかるとおり、かなり雑なつくりです。 「チャラ金」とも呼ばれながら、本物と区別なく使われていたことが不思議です。

地図は「八十二文化財団」による
 信濃伊那谷は、生糸や紙の生産が盛んな地帯でした。 中心部の飯田に堀氏1万7千石の城下町があり、その20キロ北にこのあたりの天領を治めた飯島陣屋がありました。 慶応4年(9月に明治に改元)8月に飯島陣屋は、信濃全国の天領を治める「伊那県庁」になりました。

 慶応4年3月ころ、江戸を攻める官軍がこの地を通過しました。 そのとき、官軍は大量の偽二分金を使用しました。 その後も偽二分金が流入し、飯田には2万両以上の偽二分金があり、さらに 翌明治2年6月、近江の商人が1万両の偽2分金を持ち込みました。 それまで、本物の二分金と偽の二分金は同じ額面で通用していたのですが、ついに農民たちは我慢ができなくなりました。

 明治2年7月2日、飯田の農民数千が奸商の取り調べと偽二分金の引き換えを要求して大騒動が起きました。 「飯田二分金騒動(チャラ金騒動)」です。 騒動は翌日には1万人以上に拡大し、8月には上田など信濃全国に拡大しました。
 騒ぎはなんとか治まりましたが、伊那県で二分金を調べたら、13700両中、本物の二分金は900両しかなかったそうです。

 明治2年9月、明治政府は、偽二分金100両を太政官札30両と交換すると発表しました。 7割引ですが、政府も偽金を完全否定はしていなかったのです。
 これに対し、伊那県では偽二分金も等価交換し、その差額は伊那県が負担するとしました。 そしてその財源として生糸・和紙などを輸出する「伊那県商社」を設立し、その利益で補填する、としました。 新設伊那県庁の役人たちに前向きの姿勢が感じられます。 しかしその資金集めに無理があり、明治3年5月、知県事以下が処分され、計画は頓挫しました。 これは「伊那県商社事件」と呼ばれています。

 2023.3.2