旧約聖書の時代

Cranach エデンの園
エデンの園の時代から、金は貴重なものだったようです。
■エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分れて四つの川となっていた。その第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。(創2:10~12)

ただし、『旧約聖書』の中で、貨幣らしいきものが最初に出現するのはもっと後世で、次の一節です。
■(アブラハムは)また、サラに言った。「わたしは、銀1000シェケルをあなたの兄上に贈りました。」(創20:16)  推定紀元前14世紀
アブラハムは、モーセの5代前の先祖になる人です。この頃から、銀が貨幣の役割を果たしていたことが分かります。
それでは、もうすこし詳しく見てみましょう。
なお、青字の文章は「新共同訳」の聖書からの引用です。読みやすくするため、漢数字をアラビア数字にしました。また、引用文の後の”前x世紀”とあるのは、わたしの推定値です。

●そもそもは、財産といえば家畜や奴隷だった

金や銀が舞台に登場するまでは、家畜(や奴隷)が、財産の主たるものでした。
■モアブの王メシャは羊を飼育しており、10万匹の子羊と雄羊10万匹分の羊毛を貢物としてイスラエルの王に納めていた。(王下3:4) 前9世紀
■ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。7人の息子と3人の娘を持ち、羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。(ヨブ1:1~3) 前?世紀

●銀の重さを量って使うようになった

そのうち、大きな取引には、銀が使われるようになりました。しかし、まだ貨幣があったわけではありません。銀の塊の重さを量って取引したようです。重さの単位は「シェケル」です。シェケルは、時代や地域によって差異がありますが、平均的にはおよそ11.4gです。

■もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀30シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺さなければならない。(出21:32) 前13世紀
奴隷の値段が銀30シェケルだといっています。

      
古代メソポタミアで使われていた貨幣の一種で、銀を螺旋状に巻いたものです。 200×60mm
これ全体でおそらく50シェケルくらい。 通常は、必要な大きさに切断して使われていました。
画像出典:Oriental Institute Museum, University of Chicago

■ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀20枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。(創37:28) 前13世紀
「銀20枚」というのが気になる表現です。すでに重さの固定された銀があるような表現です。ただし、この部分、口語訳では「銀20シケル」としています。(シケルとシェケルは同じ意味です)

■ソロモンの馬はエジプトとクエから輸入された。王の商人は代価を払ってクエからそれを買い入れた。また彼らはエジプトに上り、戦車を1両銀600シェケル、馬を1頭150シェケルで輸入した。(代下1:16~17) 前10世紀
国際貿易でも銀が使われています。

■そこで、わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀17シェケルを量って支払った。(エレ32:9) 前7~6世紀
■わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、払わなくてもよい。」彼らは銀30シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。(ゼカ11:12) 前6世紀

次の表は、メソポタミア文明の歴史上の記録からの抜粋です。
数字はアバウトなところがありますが、おおよその価値が想像できます。
王国 世紀 銀1シェケルの穀物銀1シェケルの羊毛 1ケ月の労賃奴隷のねだん
エシュヌンナ王国前20世紀大麦120リットル3Kg1シェケル 
ハンムラビ王前18世紀大麦300リットル 1シェケル20シェケル以下
アッシリア王国前18世紀穀物240リットル7.5Kg  
ウルク王国前16世紀穀物360リットル6Kg  

●普通のシェケルと、聖所のシェケルの違いがあった

「シェケル」には、「普通のシェケル」と、「聖所(せいじょ)のシェケル」の二種類あったようです。
■主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。もし、終身誓願に相当する代価を、満願の献げ物として主にささげる場合、その相当額は20歳から60歳の男子であれば、聖所のシェケルで銀50シェケルである。もし女子であれば、その相当額は銀30シェケルである。 (レビ27:1~7) 前13世紀
■アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀400シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。こうしてマムレの前のマクベラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。(創23:16~18) 前14世紀

「(普通の)シェケル」と「聖所のシェケル」の具体的な値については定説がありません。普通のシェケルは聖所のシェケルより軽いという説と、その逆に重いという説があります。また「王のシェケル」というのもあり、これが普通のシェケルだという説と、逆に聖所のシェケルだという説まであり、諸説いろいろです。

Brueghel バベルの塔 1563
●金の延べ板もあった

金の延べ板というものもあったようです。
■分捕り物の中に1枚の美しいシンアルの上着、銀200シェケル、重さ50シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。(ヨシ7:21) 前13~12世紀

金は砂金という形で得られたのですが、自然銀は極めて少なく、金より銀の方が高価だったこともありました。 しかし、その後銀の採掘技術が発達し、金の方が高価になりました。
■ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金で出来ていた。銀製のものはなかった。ソロモンの時代には、銀は値打ちがないものと見なされていた。(王上10:21~22) 前10世紀
このころ、金は銀の8~13倍くらいの価値がありました。

●銀は、日常生活の中で使われるようになった

そのうち、銀が日常生活の中でも使われるようになりました。
■そこで民は出て行ってアラムの陣営で略奪をほしいままにし、主の言葉どおり上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られるようになった。 (王下7:16) 前9世紀
1セアは7.7リットルです。「銀1シェケル」ではなく、単に「1シェケル」と書かれています。一般の重さの単位の「シェケル」が、「銀」の重さの単位に変化しています。銀が貨幣の位置を確かにしたのでしょう。

旅人は銀を携行し、銀があればで何でも購入できたようです。
■収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。(申14:24~26) 前7世紀

●ペルシャの貨幣を使い始めた

貨幣が最初にあらわれたのは小アジアにあったリディアのことで、紀元前7世紀のことです。当初は金と銀の自然合金エレクトラムの貨幣でしたが、その後金貨と銀貨に分離されました。
リディアを滅ぼしたペルシャでは、ダリク金貨とシグロイ銀貨を基本にする貨幣制度を整えました。
アケメネス朝ペルシャのシグロイ銀貨
紀元前5世紀


■エルサレムの主の神殿に着くと、家長の幾人かは、神殿をその場に再建するために随意の献げ物をささげた。彼らはそれぞれ力に応じて工事の会計に金6万1千ドラクメ、銀5千マネ、祭服100着を差し出した。(エズ2:68~69) 前6世紀
 「ドラクメ」と訳されていますが、口語訳聖書では「ダリク」と訳され、ペルシャが発行した「ダリク金貨」のことです。
また、「マネ」は50シェケルのことで、約500gくらいです。
(金61000ドラクメはおよそ金500Kg、銀5000マネはおよそ銀2500Kgです。合計すると当時の労働者の労賃の200万日分以上になります。1日の労賃を現在の1万円とすると、200億円以上です!)

■わたしたちは、神殿での奉仕のために年に3分の1シェケルの納入を義務として負う。(ネヘ10:33) 前6世紀
この「シェケル」は、ペルシャの発行した「シグロイ銀貨」のこととされています。



2007.12.11   2020.11.22 少し改訂