延久5年(1073年)の古文書
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古代日本の貨幣経済は10世紀末に終焉を迎えました。
986年の「本朝世紀」の記録では、 ”一切世俗銭を用いず”の状態となりました。
貨幣経済が復活したのは1150年ころです。宋から銭を輸入し、貨幣として使い始めたのです。
この間、150年以上、日本国内では「銭」は全く使われてはいなかったはずです。
ところが、延久5年(1073年)の古文書に「代銭50貫580文」の記述があります。
「伯耆国雑掌秦成安解 申注進造東寺御封所済勘文事合」の中に、次の一文があるのです。
治暦二年料五十烟 准米百六石四斗七升 代銭五十貫五百八十文 代手作布五十一段
治暦2年(1066年)の1年間の「料」を「50烟」とし、それが米106.47石、銭50.58貫文、手作布51段に相当するとしています。
僧成尋が宋に渡ったのはまさにこのころの延久4年(1072年)のことで、中国で「銭」が盛んに使われていることは知られていました。
しかし、日本では「銭」の実体は存在しませんでした。
この古文書の「銭」は、日本の皇朝銭? 唐・宋の銭? それとも仮想の銭? さてさて・・・
ここまでがこのページの本題なのですが、この古文書にはまだ奇妙な箇所があります。
本文では、この「料」の明細と、それが延久5年までの8年間も同じで、8年分の合計は米1011.77石だと記しています。
それらの部分をやや読みやすい形にしてみました:
伯耆国雑掌秦成安解 申注進造東寺御封所済勘文事合
治暦二年料50烟 ①准米106石4斗7升 ⑦代銭50貫580文 代手作布51段
調絹19疋 ②代19石(疋別1石) ⑧代19貫文(疋別1貫)
庸綿70屯8両 ③代36石(屯別5斗) ⑨代10貫580文(屯別150文)
中男作物油4升9合 ④代1石4斗7升 ⑩代1貫文
租穀200石 ⑤代1石4斗7升 ⑪代12貫文
封丁2人 ⑥代10石(人別5石) ⑫代8貫文(人別4貫文)
治暦三四年 延久元二三四五並7ケ年料 色目同前 ⑬准米1011石7斗7升 8ケ年料
(中略)
右、八箇年御封所当、注進如件、
延久五年八月三日 雑掌秦<在判>
最初の50烟の「烟」は単位の名称のようですが、全く不明です。
また、米の「石」と銭の「貫」は、比例していてよさそうなのですが、1石=1貫だったり、そうでなかったり、これについてもよくわかりません。
さらによく見ると、数字が合わないところがあります。
⑦=⑧+⑨+⑩+⑪+⑫ はぴったり合うのですが、①=②+③+④+⑤+⑥にはなりません(仮に、⑤を40石の間違いとすると合うのですが)。
また、⑬÷8=126石4斗7升なのすが、①と微妙に合いません。
どうも、だいぶ書き間違いがありそうな古文書のようです。
【参考文献】竹内理三編、「平安遺文」、東京堂出版
2009.7.12
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