「一朱銀」は一朱以下だった?

嘉永一朱銀


可右 一一一    不金 文
被之        洩相 久
触通 壱弐小    様場 弐
知御 朱朱判  九 可今 壬
候触 銀判   月 触日 戌
此達      十 知よ 年
段被 四九七  九 候り 九
申仰 匁匁拾  日 以左 月
達付 七七七    上之 廿
候候 分分匁 三   通 六
且条 五 六 好   立 日
此写 厘 分 郡   直 拝
状相     中   候 上
早達 以一一     条 御
々候 上   与 三 右 触
順早  壱弐 頭   様 之
達々  分分 庄 間 相 写
可村  銀判 屋   心 左
有中     共 勝 得 之
之不  拾三 方   其 通
候相  九拾 へ 蔵 方  
以洩  匁八     共  
上様  四匁     組  
    分八     村  
     分     々  

 右の古文書は、阿波国三好郡中庄村の庄屋さんの家に残されていたものです。徳島藩の郡代さんからのお達しを書き写したもので、金貨・銀貨の銀相場を領内に下達したものです。
 このときは、小判(金1両)=銀77.6匁の相場でした。
 二分判=銀38.8匁、一分銀=銀19.4匁、二朱判=銀9.7匁と、ここまでは計算どおりなのですが、一朱銀=銀4.75匁となっています。小判の16分の1は、銀4.85匁なので、少し値が違います。
 庄屋さんの書き間違いなのかな、と思ったのですが、この後数件ある郡代さんからのお達しの写しでも、いずれも一朱銀だけが計算があいません。

年月小判一朱銀一朱銀16枚差異
文久2年9月26日銀77.6匁銀4.75匁銀76.00匁1.6匁
文久2年10月11日銀79.2匁銀4.85匁銀77.60匁1.6匁
文久2年11月3日銀90.0匁銀5.52匁銀88.32匁1.68匁
文久2年11月20日銀86.0匁銀5.28匁銀84.48匁1.52匁
文久2年11月24日銀82.0匁銀5.02匁銀80.32匁1.68匁
文久3年8月27日銀86.4匁銀5.35匁銀85.60匁0.8匁
慶応4年1月26日銀118匁銀7.27匁銀116.32匁1.68匁

 いずれも、計算上の値の98%前後になっています。つまり、「一朱銀」は、一朱より少し安価で通用されていたのです。
 当時の人は、この差異を「正金より一匁六分落」または、「一匁六分下げ」のように表現していたそうです。

 一分銀と一朱銀の重さ・品位を比較すると、次の通りでした。
 重さ銀品位銀の量
(1両あたり)
安政一分銀8.63g87330.14g
嘉永一朱銀1.89g96829.27g

 たしかに一朱銀は一分銀と比べると銀の量がほんのわずか少ないようです。 しかし、幕府のご威光で一朱に通用されているものとばかり思っていたのですが・・・

【参考文献】
   田中合編、『阿波国三好郡中庄村庄屋処役用記』、1991
   浜川浄、『「兵助」がとらえた銭相場』、「ボナンザ」昭和53年4月号
   日本貨幣商協同組合、『日本貨幣カタログ』

2009.12.31  2020.7.18 一部改訂