シーボルトの利殖

 幕末、有名な「シーボルト事件」を起こしたシーボルトはドイツ生まれの外科医です。 日本に西洋の外科医術を伝えた影響は大きいのですが、一方で日本滞在中に大変な金額のお金を貯えたようです。
 当時のオランダの貨幣単位は、1グルデン=20スタイフェル で、1グルデンはおよそ10gの銀貨です。 「グルデン」は「ギルダー」とも書きます。
 当時の庶民の1日の生活費はおおよそ1グルデンでしたから、1グルデン=1万円程度と考えられます。

 
1グルデン銀貨 西フリースランド州 1794年
32.2mm 10.5g
●日本へ
階級年俸
商館長(カピタン)18,000グルデン
荷倉役4,800グルデン
筆者頭2,400グルデン
医師1,500グルデン
事務官(5人)1,080~1,200グルデン
食料調達係400グルデン
荷倉番400グルデン
 ■1822年7月19日 ハーグ到着後、・・・ 一等書記官デュッケル博士に面会、オランダ領東インド植民地陸軍一等外科少佐に任命され、年俸3600ギルダーを支給されることを告げられる。
 右の表は、この頃の長崎出島で働いていたオランダ人の年俸の規定です。シーボルトの年俸は、かなりな高給です。
 長崎の出島に着いたのは1823年8月のことです。 このとき、27歳でした。

●標本採集
 オランダ政府がシーボルトに期待したことは、日本の動物・植物・鉱物などの標本を採集することでした。 オランダ政府は、そのため彼に毎年8331グルデンの研究費を認めました。
 シーボルトは盛んに標本を採集しましたが、日本の動植物が高価なことに驚いています。 しかし、貨幣経済が発達していたため、お金さえ出せば思いどうりのものが入手できたようです。
 ■この国では、自然物すなわち哺乳動物、鳥、貝および珍しい植物はときにとびきり高価格です。たとえば、日本産のシカの価格が50タエルから60タエル、クマ一頭が80タエルから100タエル、珍しい小鳥1羽が15タエルから50タエルもします。 (1823年の報告書)
 ■(日本人の)骸骨は私の門弟によって大坂から私のもとに入手できますが、値段は非常に高く、600タエルくらいでしょう。(1824年の報告書)
 「タエル」という貨幣単位は、当時ドイツのプロシャなどで使われていた貨幣「ターレル」のことと思われます。 そのことは、別のところの報告書に、
 ■日本の税収は米の石高で、およそ2350万石になります。1石は6タエルに換算されるので、税収は貨幣額で1億4100万タエルあるいは2億2560グルデンとなります。(1825年の報告書)
と書かれていることから、1タエル=1.6グルデンとなり、ターレル=16.7g、グルデン=約10gと一致します。

 ■ついでながら、当地では植物が1本につき小判100枚以上、つまりほぼ1000グルデンで販売されるというまことに驚くべき事例を閣下にお伝えしておきます。 (1824年の報告書)
 100両もする植物とは、いったい何なのでしょう?
    
 
6スタイフェル銀貨 ユトレヒト州 1764年
26.8mm 4.9g

●利 殖
 彼は日本に来る直前、バタフィアにて3000本以上のワインとビールを買い込みました。
 ボルドーワインは1箱(50本)37ルピーで購入しました。「ルピー」はインドの貨幣単位ですが、ほぼグルデンと等価です。
 彼は、このワインは日本では90ルピー以上で売れる書いています。買い込んだ量の半分を自分で消費し、残りを日本人に売りました。購入したお金にはお釣りがついて返ってきました。

 出島の商館員たちの日常生活は、基本的には無料だったようです。 しかも、彼らは、個人的な輸入(悪くいうと密輸)で利益もあげていました。
 ■月給(年俸?)は3700ルピー、日常生活は衣食住すべて無料、しかも4000ルピーに達する商取引にも加えられて・・・(母への手紙)
 ■私の経済状態はとても良好です。・・・毎年少なくとも6000グルデン貯えられるはずで、しかも日本の商取引と診療がうまく行けば、おそらく8000グルデンは確かであろう。
 彼らは、ガラス器、陶器、時計、望遠鏡、医薬品、書籍などを輸入し、200%近い収益をあげていたそうです。 研究者の研究によると、シーボルトも1827~29年の3年間に17,600グルデンの収益を得たそうです。

 
10スタイフェル銀貨 ゼーランド州 1791年
28.0mm 5.3g
●帰 国
 1830年3月、オランダに帰国しました。日本での滞在期間は6年余でした。
 滞在中、給与にはほとんど手をつけず、しかも商取引で利益をあげ、おそらく5万グルデンくらいの貯えができたと推定します。
 1838年、オランダ政府はシーボルトが収集した日本コレクションを購入しました。その金額は、何と58,500グルデンでした。
 シーボルトは10万グルデンもの大金持ちになっています。10億円です!
 メモ
1796年 2月17日、ドイツのマイン河畔のヴュルツブルクに生まれる。早くして父を亡くしたため、決して豊かな生活ではなかった。
1820年 ヴュルツブルク大学医学部を卒業し、開業する。
1822年 オランダ政府の要請により、年俸3600グルデンの契約で東インドの行きを決める。
1823年 2月、オランダ領東インドのバタフィアに到着。8月、長崎出島に到着。9月、「たき」と結婚。
1824年 長崎に「鳴滝塾」を開設し、高野長英らを教える。
1826年 江戸にて、将軍家斉に謁見。
1828年 12月、帰国しようとしたシーボルトの荷物の中に、日本地図などの禁制品が発見される。いわゆる「シーボルト事件」
1830年 1月、国外追放となり、長崎を出帆、3月、オランダに帰国。
1844年 日本幕府へのオランダ国王の親書を起草。
1859年~62年 オランダ貿易会社顧問として再来日。幕府顧問となる。
1866年 10月18日、ミュンヘンにて死去。

 【引用文献】 栗原福也編訳、「シーボルトの日本報告」、東洋文庫、平凡社、2009
 【参照文献】 横山伊徳編、「オランダ商館長の見た日本」、吉川弘文館、2005

2010.4.7