銭匁(せんめ)勘定

熊本藩の「銭預五分也」 筑後柳川藩の「六四銭五匁預り」 豊後岡藩の「七銭壱分預」 播磨福本藩の「銭壱匁預」 播磨中野村の「銭壱匁」
藩名銭札1匁
に付■文
明治4年の
銭1匁の価格
備 考
丹後田辺
宮津
峯山
但馬出石
播磨林田17文余1.5厘
龍野24文2厘
三日月15文余1.27厘
安志10文余0.9厘
山崎15文1.25厘
明石
福本
三草
摂津高槻100文8厘
尼崎
周防岩国76文6.3厘
徳山
伊予松山60文5厘
今治調100文8.33厘
大洲5.7厘
西条69文余5.7厘
小松60文5厘
吉田
(川之江)調150文12.5厘高知藩預幕領
筑前福岡60文
秋月
筑後久留米
柳川64文
豊後臼杵調50文4.17厘
50文
70文
76文
80文
-
5.8厘
6.4厘
-
佐伯100文8厘
日出70文5.8厘
70文
府内
(鶴崎)70文5厘熊本藩領
肥前島原60文5厘
唐津調100文8.35厘
福江調100文8.3厘
(田代)60文対馬藩領
(浜崎)72文対馬藩領
肥後熊本調100文8.3厘
日向延岡
対馬厳原90文

江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銭の3つが独立した「三貨制度」と呼ばれます。
それぞれの単位は、
  金1両=金4分(ぶ)=金16朱
  銀1匁=銀10分(ふん)
  銭1貫文=銭1000文
ですが、これらの間には相場関係があり、およそ
  金1両=銀60~65匁 銀1匁=銭80~120文
で、相場は毎日変わっていました。

江戸時代後期、西日本で、「銀○匁」でもなく、「銭○文」でもなく、「銭○匁」という単位で取引する習慣がありました。
仮想的に 銀1匁=銭■文 を固定し、銭■文を「銭1匁」と呼ぶのです。
一見銀貨単位の呼称ですが、実態は銭貨での取引です。
この方法を「銭匁(せんめ、せんもんめ)勘定」と呼びます。
  銀○匁 ・・・ 銀貨勘定
  銭○匁 ・・・ 銭匁勘定
  銭○文 ・・・ 銭貨勘定
 
■の値は、時と所によって変わります。 右の表は、銭匁勘定の藩札を発行した藩と、■の値です。 ■の値は、実際の銀・銭間の相場の値とは無関係に、何かしら恣意的に決めらたようです。

■の値を明示するときは、
  「六四銭○匁」  ・・・ 銀1匁=銭64文とするとき
  「七銭○匁」 ・・・ 銀1匁=銭70文とするとき
などと表記することもありました。
上の筑後柳川藩の「六四銭五匁預り」は、銀1匁=銭64文ですから、銭5匁は銭320文になります。

この方法がどうして発生したのかはよくわかりませんが、次のような考え方もあります。
  ・西日本の商人は「銀」で勘定することが多かった。一方、庶民は「銭」を使うことが多かった。
  ・ところが、銀と銭の関係は毎日相場によって変動する。
  ・そのため、銀と銭の関係を固定して取引するのに便利な方法として定着した。
ほんとうのところは、よくわかりません。


銭匁勘定の藩札発行地

なお、大名以外に銭匁札を発行した旗本は次のとおりです。
  但馬 糸井(京極氏)、大藪(小出氏)、村岡(山名氏)
  播磨 家原(浅野氏)、作用(松平氏)、新宮(池田氏)、長谷(松平氏)、福本(池田氏)、穂積(八木氏)、若狭野(浅野氏)
  豊後 立石(木下氏)
さらに、銭匁札を発行した家老もいました。
  土佐 佐川(深尾氏)

【参考文献】
  鹿野嘉昭、「藩札の経済学」、東洋経済新報社、2011
  荒木豊三郎、「増訂日本古紙幣類鑑」、思文閣、昭和47
  小川吉儀・郡司勇夫監修、「藩札図録」、雑誌「ボナンザ」連載、昭和46~
  百田米美、「旗本札図録」、兵庫紙幣史編纂所、平成4


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2011.5.5    2013.4.7改訂