シドッチが持ってきたお金

「親指のマリア」 (東京国立博物館蔵)
シドッチ(ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ Giovanni Battista Sidotti)は、1668年イタリア生まれのカトリック司祭。 鎖国日本の殉教の話を聞き、日本での布教を決意しました。
ルソンで4年余り準備した後、宝永5年(1708)、屋久島に上陸しました。 そのときのいでたちは、頭を月代にそり、和服を着て、腰に大小を差していました。 本人は見事日本の侍に変装したつもりなのでしょうが、青い目で日本語が全く話せない。 すぐにつかまり長崎奉行所に送られました。

彼が持っていたマリア像は「親指のマリア」として有名です。 新井白石もこの像を見て、「この女の像は年のころ40近く見え、目はくぼんで、鼻すじ高く、美しい面だちです。」と書いています。 東京国立博物館で、時折展示されています。

その他にも彼は、カトリックの祭具や書物、そしてお金も所持していました。
●ルソン国で取り換えた金、1つ。このとおりの金、すずりの墨のような形にしたもので、裏のほうは木目がなく、文字のような極印が2か所にありますが、はっきりとは見えません。(この重さ98匁)
●板金のような金、大小181。 他に金の切れ、1つ。
  重さ2匁7分余り。
  重さ2匁余り。
  重さ1匁5分。
 重さの合計は385匁。
●同じく小さい丸金、160粒。
 ただし、粒は大小あり、丸薬のようにした金、重さは同じでないのがあり、2分、3分、4分ほどずつちがいがあります。 160粒合わせて総重量は51匁。
●日本の小粒金が18。ただし新金。ルソンで求めたという。
●銭、一くくり。ただし寛永の日本銭が76銭、康熙唐銭が30銭。ルソンで2種とも求めたという。
・・・『長崎注進邏馬人事』
  新金の小粒金・・・「元禄一分金」
  寛永の日本銭・・・「寛永通宝」
  康熙唐銭・・・清の「康熙通宝」

総額約2キロの金と、100余枚の小銭です。 当時の日本貨幣で130両くらいになります。
江戸に連行されたシドッチは、新井白石の尋問を受けました。
「これらの黄金は、どこで手に入れることができたのか」と聞くと、
「そもそも旅をする人にとって、路銀はなくてはならないものだということは、明らかなことです。
私がはじめローマ国を出発したとき、スクウタ=アルセンテヤという銀貨を持っていましたが、カアデイキスというところで、イスパニアの銀貨に換えることができました。
マルバルに着いたとき、またその銀貨をホンテチリという町で、その国の銀貨に換えることができました。
このように貨幣を何度も換えたのは、どこの国の場合も、その地方で流通している貨幣の形や、ねうちが違っていて、その地方で使われている貨幣でないと、使うことができないからです。
ルソンに着いて、持っていた貨幣をさらに黄金に換えました。 それは日本では黄金でできた貨幣を大事がるからでした。 弾の形をした地金、錠という板金がこれです。
日本製の金貨や銅銭は、3年前ルソンに漂着した人々が持っていたものを、換えてもらったのです」
と答えた。
・・・『西洋紀聞』
  スクウタ=アルセンテヤ・・・ローマのScudi銀貨。
  カアデイキス・・・スペイン南部の港町(カディス)
  マルバル・・・インド西部の地方名(マラバル)
  ホンテチリ・・・インド東南部の港町(ポンディシェリ)

シドッチは、新井白石の計らいで処刑されることなく、江戸の切支丹屋敷で軟禁されていましたが、1714年46歳で衰弱死しました。
【引用文献】
  新井白石原著、大岡勝義・飯盛宏訳、「西洋紀聞」、教育社、1980
  新井白石著、宮崎道生校注、「新訂西洋紀聞」、東洋文庫、昭和43


2012.2.17