「大両」と「小両」

江戸時代の小判 「壱両」(1両)
この両は「小両」で、本来なら4.4匁(16.5g)の純金を意味していた。
ところが幕府の改鋳で、画像の天保小判は、重さ11.2g、
その内純金はわずか6.4g。
江戸時代の分銅 「肆両」(4両)
この両は「大両」で、1大両=10匁=37.5g
この分銅の重さは、ぴったり4大両(150g)あります。
現在の重さの単位は、グラム、キログラムですが、一昔前は、貫・匁が使われていました。
さらにそのずっと前は、「両」という単位が使われていました。 この単位は7世紀ころに隋・唐より伝わったものですが、その時伝わった単位は、大と小の2系統ありました。
   【大きん】─16─【大両】りょう ─ 24─【大しゅ】─10─【大るい  1大両はおよそ42g
   【小斤】─16─【小両】─ 24─【小銖】─10─【小絫】  1小両はおよそ14g
この二つの両は、どのように使い分けられていたのでしょうか。 使い方も重さも、時代とともに変遷していました。 

■7世紀 日本書記
日本で初めて「両」の記録が現れるのは、日本書記推古天皇13年(605)の次の記述でしょう。
是時高麗王大興王、聞日本国天皇造仏像、貢上黄金三百両
日本の天皇が仏像を造ったことを聞いた高麗王(高句麗王)が黄金300両を献上した、とのことです。
ただし、この300両が大両なのか小両なのかは不明です。

■8世紀 大宝令・養老令 (『令義解』)
権衡、廿四銖為両、三両為大両一両、十六両為斤
凡度地量銀銅穀者、皆用大 此外官私悉用小者
重さの単位としては、24銖=1両、3(小)両=1大両、16両=1斤、である、と説明しています。
そして、大小のどちらを使うかについて、地をはかるときと、銀銅穀物をはかるときは大、その他はことごとく小を使う、としています。 金は小両、銀は大両ということです。
752年に開眼された奈良の大仏に使われた金は、4187両1分4銖と書かれていますが、後世の学者は、この両を小両と算出しています。

■9世紀 円仁『入唐求法巡礼行記』
9世紀の唐では、砂金の重さを量るとき、大両と小両が共に使われています。
沙金小二両を設供の料に宛つ。留学僧も亦二両を出す。惣計小四両。・・・僧等共に一処に集まり評して大一両二分半と定む。
  (承和5年=唐開成3年=西暦838年、8月26日)
食費などで小4両の砂金を出したが、受け取り側で測り直したら大1両2.5分となったとのことです。 大両と小両の両方が使われるため、大・小を明示的につけています。 しかし、小4両=大1両2.5分は、大1両=小2.46両となります。 当時大と小の比率がこうだったのか、または出す側と受け側で秤に差別があったのか、知りたいところです。

■10世紀 『延喜式』
その後、10世紀の延喜式では
凡度量権衡者、官私悉用大、但測晷景合湯薬則用小者 (およそ度量権衡は、官私ことごとく大を用いる。 但し晷景ひかげを測るとき、湯薬をあわせるときは小を用いる。)
と、薬を測るとき以外はすべて大を使う、と変化しています。 晷景とは、精密な制度が要求される天文観測の長さの測定のようです。 この頃から、金も銀も共に大両になっています。

■13~14世紀 『拾芥抄』
ところがその後、だんだん小両を使うことが増えたらしく、13~14世紀に書かれた『拾芥抄』では、
物充斤目有大小 所謂胡粉白□銅鉄絲綿紅蘇芳已上為大目 金銀水精青木香金青緑青陶砂已上為小目 (物を充つる斤目に大小が有る。所謂いわゆる胡粉ごふん、白□、銅鉄絲、綿、紅、蘇芳そほう已上いじょうは大目を為す。金、銀、水精すいしょう、青木香、金青、緑青、陶砂、已上いじょうは小目を為す。 □は金偏に葛)
と、貴金属や顔料、香料などの品目によって大・小を使い分けていますが、注目すべきは、金も銀も一転して小両を使うように変化していることです。

■14世紀 『三貨図彙』
京都若江従四位長公朝臣家蔵に、観応年間(1350~52)の古文書あり、其中に、京江進上の砂金は目一両四匁五分、田舎江下し賜ふ砂金は目一両四匁七分、とあり
室町殿時代、京都金銀両目の大法は、一両四匁五分にて、田舎遠国よりの進献は、必二分宛の運力を加ふ

小両を使うようになった金ですが、その小両にも使う場所によって微妙な差異が生まれてきました
この文書によると、京へ進上するときは金1両=4.5匁、田舎へ下し賜うときは金1両=4.7匁、といっています。 この違いを「京目」と「田舎目」と区別していました。
また、「匁」という単位ですが、
唐志に、「武徳四年(621)、鋳開元通宝、径八分、重二銖四るい、積十銭重一両」と云、以是考ふれば十銭則十匁也、一銭は一匁也
と、唐が1両の10分の1の重さの「開元通宝」を発行し、これ1枚を1銭⇒1文(文目)⇒1匁と呼んだことに由来します。 ただし「匁」の文字は日本固有の文字で、その初出は、次の項の『大内家壁書』とされています。
また、1両の下位単位は24銖だったのですが、いつの間にか16朱に変化しました。 その時期については、はっきりしていません。  そのことを、而して其値とせし事は、何の年代に起りしにか、詳ならず と書いています。

■15世紀 『大内家壁書』
こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、何れも一両四文半銭にて 二両九文目たる処、こがねをば一両五匁にうりかふ事 そのいわれなし 殊に御分国中如此云々
1484年の山口の戦国大名大内氏の法令です。 両は、京都の大法として使われている4.5匁とせよ。 1両=5匁はを使ってはならない。 この文書は、「匁」の文字の初出とされています。

■15~16世紀 『金銀図録』
足利の時、金銀一両の目各四匁五分なり、
文明(1469~87)の末に至ては、金は五匁を以て一両とし、銀は四匁五分を一両とするものあり、
天正(1573~92)中に金一両と云もの、四五匁に当るあり
最後の文章は、金一枚か、四匁五分の書き間違いかと思われます。

他の情報なども含め、上をまとめると、
8世紀(飛鳥奈良時代)、大小二つの単位があり、1小両=14g、1大両=42gくらい。
  金は小両、銀は大両を使っていた。

 【大斤】─16─【大両(42g)】─24─【大銖】 (銀の重さ) 
          │3
 【小斤】─16─【小両(14g)】─24─【小銖】 (金の重さ) 


10世紀(平安初期)、延喜式では、金も銀も大両を使うとしている。
13~14世紀(鎌倉室町時代)、金も銀も小両を使うようになった。
  なお、このころ金1両=5匁、銀1両=4.3匁くらいだったらしい。
15世紀(室町時代)、京目と田舎目の区別ができる。
  金1両は京目で4.5匁だが、田舎目は地方により4匁、4.2匁、4.7匁、5匁などいろいろあった。
  一方、1大両は10匁(37.5グラム)に変化していたと思われる。
16世紀末(戦国末期)、金1両は4.4匁に、銀1両は4.3匁に。

           【貫】─1000─┐            
 【斤】─16─【大両(37.5g)】─10─┴─【匁】─10─【分(ふん)】(一般の重さ) 
       【小両(16.5g)】─4─【分(ぶ)】─4─【朱】    (金の重さ)
       【小両(16.1g)】─4─【分(ぶ)】─4─【朱】    (銀の重さ)


17世紀初(江戸初期)、江戸幕府は金1両(4.4匁)の小判を鋳造。 銀貨は匁の単位を使う。
  1大両=10匁の単位も残ったが、実際に使われるのは稀。
17世紀末(元禄期)、江戸幕府は、重さ1両に満たない小判を「金一両」と名付けて発行(元禄の改鋳)。
  このとき、重さの単位だった「両」が貨幣の単位に変ってしまった。

 【斤】─ 160─┐            
 【貫】─1000─┴─【匁(3.75g)】─10─【分(ふん)】(一般の重さ)
 【両】──4──【分(ぶ)】──4──【朱】     (金貨の単位)





【解題】
  「大宝律令」 大宝元年(701)に制定された日本の律令。
  「養老律令」 天平宝字元年(757)に制定された大宝律令の改定律令。
  『令義解(りょうのぎげ)』 天長10年(833)に、勅命により編纂された「大宝令」「養老令」の注釈書。
  『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』 承和5~14年(838~847)に、遣唐使と共に唐に渡った僧円仁の日記。
  『延喜式(えんぎしき)』 平安中期の格式(律令の施行細則)の一つ。 延喜5年(905)に編纂を始め、延長5年(927)に完成。
  『拾芥抄(しゅうがいしょう)』 鎌倉中期~室町初期に成立した類書(百科事典)。
  『大内家壁書』 15世紀に山口の守護大名大内家が制定した法令。 引用のものは文明16年(1484)のもの。
  『金銀図録』 文化7年(1810)、幕府書物奉行の近藤重蔵 (守重) が著わした古金銀貨の解説書。
  『三貨図彙(さんかずい)』 文化12年(1815)に両替商の草間直方が著作した貨幣学の書物。


【参考文献】
  神宮司庁蔵版、『古事類苑・泉貨部称量部』、初版・明治29年、復刻版・吉川弘文館・昭和55
  草間直方、『三貨図彙』、初版・文化12年、復刻版・白東社・昭和7

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