撰 銭 令えりぜにれい


平安末期に始まった銭の流通は、貨幣経済が拡大し銭の需要が増えると渡来銭だけでは不足し、日本でも生産するようになりました。
しかし、日本の生産技術は未熟でした。 渡来銭に比べると、日本銭はかなり劣悪でした。
幕府や諸大名は、渡来銭と日本銭の使用の際の一定のルールを定めた「撰銭令」をしばしば出しています。
それらのうち、典型的な3つの例を見てみます。
なお、「銭を撰ぶ」とは、良い銭のみを選別するという意味ではありません。 「悪い銭を選別して排除する」、という意味です。 つまり、「銭を撰ぶな」=「悪い銭も使え」です。

引用にあたって、文言を幾分わかりやすく改修しました。
例えば、「わうこの例たる上ハ」 ⇒ 「往古の例たる上は」 のようにです。

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●大内氏の撰銭令 文明17年(1485)
 
 禁 制
一 錢を撰ぶ事
段錢の事は、往古の例たる上は、撰ぶべき事もちろんたり
と言へども、地下に宥免の儀として、
百文に永楽・宣徳の間廿文あて加へて、可収納也
一 利錢并売買錢事
大小をいはず、永楽・宣徳においては、撰ぶべからず
さかひ錢と洪武錢なわ切の事也・うちひらめ、
この三色をば撰ぶべし
但如此相定らるるとて、永楽・宣徳ばかりを用べからず
百文の内に永楽・宣徳を丗文を加へて使ふべし

    文明十七年四月五日
              大炊助在判弘興

 

【大意】
 段銭を納めるときは、もちろん悪い銭を選別しなさい。
 しかし、100文の内、永楽通宝と宣徳通宝が20文あっても良いことにする。
 貸借や売買のときは、永楽通宝と宣徳通宝を選別してはならない。
 さかひ銭・洪武・うちひらめの3種だけを選別しなさい。
 だからといって永楽・宣徳ばかりを用いてはならない。
 100文の内に30文加えて使いなさい。

 段錢 ー 租税の一種。
 地下に宥免の儀として ー 下々のものたちに寛大な処置として。
 永楽、宣徳 ー 明の「永楽通宝」「宣徳通宝」。
 さかひ錢 ー 「堺銭」。当時、近畿地方で生産された銭が堺より伝わり、この銭を「堺銭」と呼んでいたらしい
 洪武 ー 明の「洪武通宝」を模した日本製の小さな銭のことらしい。 「なわ切り」のことは不明。
 うちひらめ ー 「打平」。銭銘のない小さな銭。

  12世紀に始まった渡来銭の流入は、当初は唐や北宋・南宋の銭が主体でした。 これらは均一で高品質なものでした。
  しかし、銭不足を補うため日本で量産された銭は、決して品質が良くありませんでした。 当然、人々はこの銭を嫌いました。
  また、15世紀から新たに明の「永楽通宝」、「宣徳通宝」が登場しましたが、これらは高品質であったにも関わらず、見慣れない銭銘に嫌う人が多くいました。
  大内氏の撰銭令は、この混乱を法規制でしずめようとしたものです。
  日本製の粗悪な銭は使ってはならない。 明銭(永楽、宣徳)は3割までは使って良い、ただしお上に納めるときは2割までと、やはりお上も嫌がっているところが面白い。


●室町幕府の撰銭令 明応9年(1500)
 
一 商売輩以下撰銭事
近年ほしいままに撰銭之段、はなはだ不可然、
所詮於日本新鋳料足者、堅可撰之、
至根本渡唐銭永楽洪武宣徳等者、
向後可取渡之、但如自余之錢可相交
若有違背之族者、速可被処厳科矣

 

【大意】                                       ・
 日本で作られた銭は、選別しなさい。 (選別するということは、排除するということです)
 中国から渡来した銭は、永楽洪武宣徳を含め、すべて受け取らなければならない。
 違反者は厳罰に処する。

 「日本新鋳料足」 ー 日本で作られた銭。 料足(りょうそく)とは、ここではお金のこと。
 「根本渡唐銭」 ー 中国より渡来した銭。

  これは、室町幕府が最初に出した撰銭令です。
  ルールはシンプルです。 日本の銭は使うな、渡来銭だけ使え、です。
  注目すべきは、山口で嫌われていた永楽通宝と宣徳通宝も渡来銭として認められている点です。



●織田信長の撰銭令 永禄12年(1569)
 

 定精選条々
一 ころ、宣徳、焼け錢、下々の古銭 以一倍用之
一 ゑみやう、大かけ、割れ、磨り、以五増倍用之
一 うちひらめ、なんきん、以十増倍用之
 此外不可撰事
一 諸事のとりかはし、精錢と増錢と半分宛足るべし
  此外は其者の挨拶にまかすべき事
一 悪銭賈買かたく停止事
       永禄十二年三月一日  弾正忠

 

【大意】                                      ・
 ころ、宣徳、焼け銭、状態の悪い古銭は2枚で1文とする。
 ゑみやう、大かけ、割れ、磨りは5枚で1文とする。
 うちひらめ、なんきんは10枚で1文とする。
 この外は選別してはならない(1枚1文である)。
 お金のやりとりは、良い銭と悪い銭を半々にしなさい。
 双方が合意すればそれに任す。
 悪銭を売買してはならない。

 ころ - 摩滅した銭のことか?
 ゑみやう ー 「恵明」とされるが、詳細不明。 「穢冥」をあて、汚い銭とする説もある。
 うちひらめ ー 「打平」。 銭銘のない小さな銭。
 なんきん ー 「南京銭」、小さな銭、または南京付近で使われていた粗悪な銭。

  悪銭を追放すると、銭の供給量が減ります。
  一方で、貨幣経済が拡大すると、銭の需要量が増えます。 銭を減らしたくありません。
  信長の撰銭令では、悪銭を完全に排除するのではなく、一定の価値での使用を認めたものです。

 これまでの3つを簡単にまとめると、次のようになります。
発令者 宋銭
明銭
日本銭
(えみょう)
日本銭
(うちひらめ)
1485年 大内氏 使用可3割までなら使用可使用不可
1500年 室町幕府使用可使用不可
1569年 織田信長使用可5枚で1文とする10枚で1文とする
 時代とともに、撰銭令の内容が少しずつ変化していることが分かります。



 典型的な「撰銭令」は上のとおりですが、では実際に撰銭された銭とはどんな銭だったのでしょうか。

●基準銭
 まずは、当時の基準となっていた銭を見てみましょう。

●渡来銭(1) 唐・宋・南宋の銭
12~14世紀に主に南宋より輸入された唐・宋・南宋の銭。
重さ3.5g前後、大きさ24mmくらいでほぼ一定している。
左は宋の「宣和通宝」
4.1g 24.4mm
●渡来銭(2) 明の銭
15~16世紀に明より輸入された明の銭。
品質はいいのに、銭銘が見慣れなかったためか当初は嫌われた。
左は「永楽通宝」
3.8 g 24.5mm

●撰銭された銭
 次に、撰銭された粗悪な銭を見てみましょう。
●粗悪な銭(1)
右は宋の「淳化元宝」。
左はそれをまねて日本で製造した銭。 小さくて、かつ面文が読みづらい。
「堺銭」、「南京」、「恵明」などはこのような銭のことだったのかも知れない。
左 1.9g 23.0mm
右 3.3g 23.7mm
●粗悪な銭(2)
右は明の「洪武通宝」。
左はそれを模した日本製の「洪武通宝」で、極端に小さい。
大内氏が嫌った「洪武」とはこの銭のことだったのかも知れない。
古銭界では「筑前洪武」と呼ばれている。
左 1.7g 19.6mm
右 2.6g 23.6mm
●粗悪な銭(3)
日本製の「打平(うちひらめ)」
銭の形をしているだけで、銘文がなく、小さい。
重さも渡来銭の3分の1。
1.3g 20.4mm
●粗悪な銭(4)
かなり劣化した銭。
「大かけ」、「われ」、「すり」、「ころ」とはこのような銭のことだったのかも知れない。
日本の皇朝銭のひとつ「神功開宝」が経年で劣化したもの。
1.6g 22.5mm
●粗悪な銭(5、6,7)
海中または火中で傷み、錆と傷が強いもの。
こんなものが銭さしの中に紛れ込んでいたら誰でも嫌がる。
一番左は漢の「五銖銭」らしい。 また、一番右は磁性があり、鉄分が多く含まれているようだ。
左から、2.4g 25.2mm / 2.1g 21.8mm / 2.3g 23.0mm。

この頃は、Made in China が良い製品、Made in Japan が悪い製品だったようです。



●大学入試共通テスト 2023年1月14日 日本史B【第3問】

問3 ーーー次の史料1は1500年に室町幕府が京都で発布した撰銭令である。また、後の史料2は1485年に大内氏が山口で発布し、1500年においても有効だった撰銭令である。史料1・2によって分かることに関して述べた後の文a~dについて、最も適当なものの組合わせを、後の①~④のうちから一つ選べ。

史料1
 商売人等による撰銭の事について
 近年、自分勝手に撰銭を行っていることは、まったくもってけしからんことである。日本で偽造された私鋳銭については、厳密にこれを選別して排除しなさい。永楽銭・洪武銭・宣徳銭は取引に使用しなさい。   (『建武以来追加』大意)
史料2
 利息付きの賃貸や売買の際の銭の事について
 永楽銭・宣徳銭については選別して排除してはならない。さかい銭<注1>・洪武銭・うちひらめ<注2>の三種のみを選んで排除しなさい。   (『大内氏掟書』大意)
 <注1> さかい銭:私鋳銭の一種。
 <注2> うちひらめ:私鋳銭の一種。

a 使用禁止の対象とされた銭の種類が一致していることから、大内氏は室町幕府の規制に従っていたことがわかる。
b 使用禁止の対象とされた銭の種類が一致していないことから、大内氏は室町幕府の規制に従ってはいなかったことがわかる。
c 永楽通宝は京都と山口でともに好んで受け取ってもらえ、市中での需要が高かったことが分かる。
d 永楽通宝は京都と山口でともに好んで受け取ってもらえず、市中での需要が低かったことが分かる。

① a・c  ② a・d  ③ b・c  ④ b・d

 この問題に対する私の疑問 :  aとbはどちらが正しいか?
 この問題文だけから判断すると、「洪武銭」の扱いが異なるという単純な理由で、bが正しい、となります。
 しかし、大内氏の「洪武銭」とは当時の私鋳銭の一種ではないか、との説もあります(●粗悪な銭(2)の記述参照)。 つまり、史料1の「洪武銭」は明銭の洪武通宝、史料2の「洪武銭」は私鋳銭の一種とすれば、答えはaになります。
 さらに、本来の大内氏の撰銭令には「永楽銭・宣徳銭は3割までに限って使用していい」、という重要な規定が含まれていたはずですが、問題文の史料2の引用にはこの文言がありません。 歴史を知っている学生になら、bが正しいということになります。
 いかがでしょうか。


●一橋大学1993年度入試問題 日本史【第1問】
次の史料は、1485(文明17)年に周防の守護大内氏によって出された撰銭令の一部である。この史料を読み、下記の問いに答えよ。
(史料には、読み下しにするなどの変更が加えられている。)(400字以内)
  禁  制
一、銭を撰ぶこと
 段銭のことは、往古の例たる上は、撰ぶべき事、勿論たりといえども、地下の仁宥免の儀として、百文に、永楽宣徳の間廿文あて加えて収納すべき也。
一、利銭並びに売買のこと
 上下大小をいとわず、永楽・宣徳においては、撰ぶべからず。さかい銭洪武銭打ち平め、この三色をば撰ぶべし。但し、かくのごとく相定めらるるとて、永楽・宣徳ばかりを用うべからず。百文の内に、永楽・宣徳を卅文加えて使うべし。
 問1 この法令を通じて大内氏が目指したのは何か。下線部の言葉を用い、説明せよ
 問2 撰銭令は、15・16世紀に集中的に出されているが、それは何故か。貨幣流通・国家のあり方の面から、江戸時代と対比させて論ぜよ。
 問3 貨幣流通の発展は、政治制度にも影響を与えた。貫高制はその主要な一つである。貫高制の内容について説明せよ。



参考文献
  鈴木公雄、『出土銭貨の研究』、東京大学出版会、1999
  高木久史、『撰銭とビタ一文の戦国史』、平凡社、2018


 2021.2.19  2023.1.15 改訂