ビザンチン帝国のコイン

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 ● ビザンチン帝国の成立 (4~6世紀)
  コンスタンチノープルがローマ帝国の首都となったのは西暦330年のことです。
  その後395年、ローマ帝国は東西に分裂、これ以降再び統一されることがなく、コンスタンチノープルは「東ローマ帝国(ビザンチン帝国)」の首都として栄えることになります。
  ゲルマン民族の侵入などで混乱する中、貨幣制度も大混乱していました。 498年、アナスタシウス帝が、貨幣制度の改革を行い、この混乱をおさめました。
   ・「ソリドス金貨」   312年にコンスタンティヌス大帝が発行して以来、11世紀末まで東地中海世界の標準貨幣でした。
         重さは72分の1ポンド(4.5g)で、ほぼ純金に近いものでした。 ”Soldier(兵士)”の語源になった貨幣です。
   ・「ミリアレンセ銀貨」 1/12ソリドスに相当します
         実際にこの銀貨が発行されたのは8世紀になってからです。
   ・「フォリス青銅貨」  1/15ミリアレンセに相当します
         貨幣単位としては、「ヌンムス(複ヌンミ)」を使います。フォレス青銅貨1枚は40ヌンミです。
  518年にこの皇帝が没したとき、帝国には32万ポンドの金(2300万枚の金貨)が貯えられていました。
  ところがこの後、ユスティニアヌス帝(在位527~565年)は盛んな外征を行い、かつての西ローマの旧領だったイタリアやイベリアを回復しますが、帝国の金を使い尽し、せっかく獲得した占領地を維持することもできないほどでした。
ユスティニアヌス帝の半フォリス青銅貨 527~565年
表 : 皇帝像
裏 : 大きなKと、その左に十字架
Kは20ヌンムスを意味します。
24-27mm 9.0g
ユスティヌス2世のフォリス青銅貨 576年
表 : 皇帝と皇妃ソフィアの像。
裏 : 大きなMと、その右に即位12年を意味するⅩⅡ
Mは40ヌンムスを意味します。
30mm 12.4g

 ● ビザンチン帝国の繁栄 (7~10世紀)
  しかし、少し衰えたとはいえ「ローマ帝国」です。 当時のヨーロッパでは最も豊かな国です。 帝国の富をねらって、北からはスラブ民族、東からはササン朝ペルシャが侵攻してきました。
  610年、カルタゴ総督の子だったヘラクリウスが、帝国の期待をになって皇帝になりました。 一時は、かつての領土小アジア、シリア、エジプトを回復しますが、新興サラセン帝国の攻撃で、それらの大部分を失ってしまいました。
  帝国の領土はバルカンと小アジアのふたつの半島になりましたが、9~10世紀が最も安定して繁栄し、華やかなビザンチン文化が輝いていた時代です。
役職人数平均年俸
上級官僚605名94ノミスマ
中央軍兵士2.4万人13.6ノミスマ
テマ(地方)軍兵士10万人11.3ノミスマ
  国内では、官僚制と「テマ制度(軍管区制度)」が確立していました。 右の表は、9世紀の官僚や兵士の給料の記録です。 1ノミスマはソリドス金貨1枚のことです。 この当時、1ケ月の生活費は金貨2枚くらいだったそうでから、兵士の給料は生活費の半分くらいにしかならず、通常は農業で生計をたてていました。

ヘラクリウス帝のソリドス金貨 610~641年
表 : 皇帝像
裏 : 3階段の上に十字架。左にVICTORIAの文字が見えます。 この皇帝は、これまでのラテン文字に代わってギリシャ文字を採用しました。
20.8mm 4.3g
ヘラクリウス帝のヘキサグラム銀貨 615~638年
表 : ヘラクリウス帝と、共同皇帝だった子のコンスタンティノス帝
裏 : 十字架階段
この銀貨は、7世紀にヘラクリウス帝が、ビザンツ帝国としては最初の本格的な銀貨として発行したものです。 ただし、7世紀末には発行されなくなりました。
23.3mm 6.4g
ニケフォロス2世のミリアレシオン銀貨 963~969年
表 : 三つの小十字架をつけた十字架
裏 :  
ミリアレシネン銀貨は、8世紀から11世紀にかけて発行された銀貨です。
1ソリドス金貨=12ミリアレシオン銀貨に相当します。
23.3mm 3.1g
10世紀半ばのビザンツ帝国

 ● 十字軍の時代 (11~13世紀)
  11世紀になると、ロシア、ハンガリー、トルコなどの異民族との争いに加え、貴族や民衆の反乱が続発し、また封建化の進行で皇帝領が減少し、国庫が困窮化したため、金貨の品質を低下せざるをえませんでした。 これまで90%以上の純度のあったソリダス金貨は、1080年ころには30%くらいまでに減少し、1092年ついに発行されなくなりました。
  1092年、アレクシウス帝は貨幣改革を行いました。 次の3種類の貨幣を基準とするものです。
    ・「ヒュペルピュロン金貨(ヒペルペル)」 お椀のような形状なのでカップコインと呼ばれます。
    ・「エレクトラム・トラキー貨」 金と銀の合金です。 しばらくして、殆ど銀貨になりました。
    ・「ビロン・トラキー貨」 銀と銅の合金です。 しばらくして、殆ど青銅貨になりました。

役職人数平均年俸現物支給
主任司祭1名15.0ノミスマ小麦320Kg
病院長1名8.7ノミスマ小麦425Kg,大麦510Kg
聖堂のスタッフ54名10.6ノミスマ小麦255Kg
病院のスタッフ103名3.4ノミスマ小麦212Kg
老人ホスピスのスタッフ8名2.6ノミスマ小麦250Kg
  1136年、コンスタンチノープルの中心部にパントクラトール修道院が建てられました。 この修道院には帝国が運営する病院が付属していました。 右の表は、1136年のこの病院職員の俸給です。 金貨の他に小麦などの現物支給もあったようです。

  1096年より、ビザンチンの要請で始まった十字軍ですが、1204年の第4回十字軍は、イスラームを攻めずに、あろうことかビザンチンを攻撃し、フランス人を中心とした「ラテン帝国」を作ってしまいました。 ビザンチンの貴族たちは小アジアに逃れ、「ニケーア帝国」と「トレビゾンド帝国」を建国しました。

マヌエル1世のヒュペルピュロン金貨 1143~1180年
表 : キリストの像
裏 : 皇帝の像
お椀のような形なので、「カップコイン」と呼ばれています。
29mm 4.2g
アンドロニクス1世のビロン・トラキー貨 1183~1185年
これも「カップコイン」です。
ビロンとは銀と銅の合金ですが、銀は数%しか含まれていません。
28~30mm 4.4g
ラテン帝国のビロン・トラキー貨 1204~1261年
表 : バージンの立像
裏 : 皇帝の立像
ラテン帝国は、ヴェネティアの資金を元にフランスの騎士を中心とする第4十字軍が建国したものです。
貨幣の形態はビザンチンのそれを見習っています。
19mm 1.5g
トレビゾンド帝国のアスペル銀貨 1280~1297年
表 : 聖エウゲネスの像
裏 : ヨアンネス2世像
トレビゾンド帝国は、第4十字軍がコンスタンチノープルを占領したとき、ビザンチンの貴族が黒海東南岸に建国した国です。
周辺国家と巧みな外交を行い、東西交易の中継地として栄えました。
ビザンチン帝国が滅亡した数年後にオスマントルコに戦わずに降伏しました。
21-22mm 2.8g

 ● ビザンチン帝国の終焉 (13~15世紀)
  1261年、ビザンチンは再びビザンチン人の皇帝となりました。
  しかし、国内は荒れ、東のオスマントルコはますます強大になり、盛んに侵入してきます。 西ヨーロッパ世界も今度は援助してくれなくなりました。
  さらに、14世紀にはアンドロニクス2世と3世(祖父と孫)の骨肉の争いなどもあり、国力はかつての姿ではなくなりました。
  1453年、オスマントルコのメフメド2世によりビザンチン帝国は滅亡し、1千年の歴史を閉じました。
アンドロニクス2世・3世のヒュペルピュロン金貨 1325~1334年
表 : コンスタンチノープル市街の壁の周りに3本の塔、中央にマリアの胸像。
裏 : 中央にキリスト、左にアンドロニクスⅡ、右にアンドロニクスⅢ。
オスマントルコとの争いが始まった頃の皇帝たちです。
本当はもっと外周が広かったのですが、だいぶ切り取られてしまっています。
19-21mm 2.8g


  ノミスマ νομισμα
  「ノミスマ(Nomisma;ΝΟΜΙΣΜΑ)」とは、ギリシャ語で貨幣一般をさす言葉です。 複数形は「ノミスマタ(Nomismata)」です。 英語の「 Numismatist(コイン学者)」の語源です。
  通常はビザンチンでの最も標準的な金貨の呼称として使われています。 標準的な金貨は次の2種類がありました。
  「ソリダス金貨」 - 312年にコンスタンティヌス帝がはじめて発行。 重さ72分の1ポンド(4.5g)、ほぼ純金に近いもの。
  「ヒュペルビュロン金貨」 - 1092年にアレクシオス1世がはじめて発行。 品位は20.5カラット(85%)でした。
  なお、西ヨーロッパ世界では、この金貨を「ベザント(Bezant)」と呼んでいました。 ”ビザンチンのもの”といった意味合いでしょう。


参考文献:
  井上浩一、「世界の歴史⑪ ビザンツとスラヴ」、中央公論社、1998
  久光重平、「西洋貨幣史」、国書刊行会、1995
  歴史学研究会編、「ネットワークのなかの地中海」、青木書店、1999
2006.5.20  2009.6.14 update