『 寛 永 通 宝 』


    このページは、 「寛永通宝」(改訂版) に改訂いたしました。




  江戸時代の庶民の貨幣は何と言っても、『寛永通宝』です。

●プロローグ
  江戸幕府はまず、慶長6年(1601)金貨と銀貨の制度を整えました。
  しかし、銭貨に関しては中世以来の渡来銭がそのまま使われていました。
  寛永3年(1626)、水戸の豪商佐藤新助が「寛永通宝」を試作し、幕府に本格的な鋳造を提案しましたが、このときは許可されませんでした。
初期不知銭 二水永背広三

「永」字が「二」と「水」に分解されるような字体になっていることから、「二水永」と呼ばれています。
背の「三」は寛永3年の3だという説があります。
3.2g 23.7mm

●歴史1 - 「寛永通宝」の登場
  その後、寛永13年(1636)になって銅の生産量が増大したことを契機に、幕府は江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所に銭座を設け、「寛永通宝」の生産を開始しました。
  万治2年(1659)までに全国15箇所で生産された寛永通宝は、品質がよく国民に大歓迎されました。 数年間のうちに、中世から使われていた渡来銭は市場から姿を消してしまいました。
寛永13年(1636) 江戸浅草橋場 通称「御蔵銭」 正字長尾寛

御蔵銭は、書体が極めて多種多様あり、「志津磨百手」ともいわれています。
そのうちの「正字」系は書体が整い、通用銭でも美品は彫りが深く、飽かずに見ていられます。
3.3g 24.1mm
寛永14年(1637) 仙台 濶字手背大濶縁

ご覧の通り背の縁がやたら広いもものです。

2.9g 24.3mm

●歴史2 - 鋳造再開
  しばらく中断されていた鋳造が、寛文8年(1668)、江戸亀戸にて再開されました。 京都方広寺の大仏を鋳潰して鋳造したものです。 背に寛文の「文」を刻んだおなじみのものです。
  鋳造方法も改良され、書体の変化の少ない均質したものが生産されるようになりました。 これまでのを「古寛永通宝」、寛文8年以降のを「新寛永通宝」と呼びます。
  寛永通宝はその後、佐渡、京都、石ノ巻、足尾、仙台、大坂、長崎など全国数十箇所で鋳造されました。
寛文8年(1668) 江戸本所亀戸 縮字背文

背の「文」は、「寛文」の「文」です。 背文銭は数十種類に分類されていますが、掲載の品のみ通字用画の二引上側の後半が点になっています。
この特徴は、後の延宝期の亀戸銭と享保期の佐渡銭に引き継がれています。
4.2g 24.2mm
寛保元年(1741) 大坂高津 小字背元降宝大様

背の「元」は、「寛保元年」の「元」で、大坂で発行されたものです。
「背元銭」は、小ぶりで軽量なものが多いのですが、左の品はその中では大型に属します。
2.2g 22.7mm

●歴史3 - 鉄銭の開始
  元文4年(1738)、材料の銅が不足してきたので、鉄銭の鋳造を始めました。 日本で最初の鉄銭です。 青木昆陽の建策ともいわれています。
元文4年(1738) 江戸深川十万坪 含二水永

3.0g 23.4mm
明和5年(1768) 仙台石ノ巻 小字背千 鋳放し

鋳型から取り出した銭を切断し、余分なところを整形してきれいな円形にするはずのところ、最後の工程が行われず、そのまま流通してしまったものです。
仙台藩は、このころから幕末にかけて大量の鉄銭を製造、そのため良質の銅銭が退蔵され、東北地方の経済が大混乱したといわれています。
2.9g 22.1mm

●歴史4 - 4文銭の発行
  明和5年(1768)、裏に波があるやや大型の4文銭の鋳造が始まりました。 鉄銭の不人気を打開する意味もあったようです。
  これが意外に好評でした。 物の値段に16文、24文など4の倍数が多くなりました。 1串に5つの団子を5文で売られていたのが、1串4つで4文になったそうです。  ただし、このせいで多少インフレになりました。
明和5年(1768) 江戸深川千田新田 二十一波 長尾寛

日本最初の当四銭。
当四銭は最初はこのように波が21ありましたが、翌年に11波にデザイン変更されました。
5.5g 27.2mm
安政6年(1859) 江戸深川千田新田 小字無爪永(真鍮質)

銅銭としては最後の官鋳品です。
幕末混乱期の製品にしては、品質がいいものです。
4.7g 28.1mm

●歴史5 - 幕末の粗製濫造
  万延元年(1860)、幕府は4文銭も鉄に切り替えました。 慶応から明治初年にかけて、水戸、仙台、盛岡、津、会津藩などの雄藩が大量生産しました。
  明治2年(1869)ころまで、生産は続いていました。 主に鉄の1文銭と4文銭です。 逆に、銅の1文銭は鋳潰されて、「天保通宝」になってゆきました。 1文銭10枚で、100文の天保通宝が1枚できましたから、作る手間だけで大儲けできます。 水戸、会津、薩摩、長州などの藩が公然とやっていました。
万延元年(1860) 江戸深川千田新田 小字

安政期の銅4文銭の翌年に、鉄銭になりました。その最初の当四鉄銭です。
5.2g 28.8mm
慶応2年(1866) 南部藩 背盛

背の「盛」は盛岡の盛です。
会津藩、水戸藩、津藩なども鉄の4文銭を大量に作成しました。
5.2g 27.9mm

●エピローグ
  結局、約230年間に寛永通宝は、300~400億枚鋳造されました。 これは現在の10円銅貨(1951以来52年間で297億枚)の鋳造枚数を超えています。
  明治4年12月に、新しい円・銭・厘との交換比率を次のとおり定めました。 額面ではなく、実状に合わせた時価によっています。
    銅1文=1厘、 鉄1文=16枚で1厘、 銅4文=2厘、 鉄4文=8枚で1厘
  明治30年9月末、鉄銭の通用が廃止されました。
  寛永通宝(銅銭)が正式に通貨でなくなったのは、何と昭和28年12月末、円未満の通貨が全て廃止されたときです。
下田極印銭 - 明和6年(1769) 江戸深川千田新田 俯永

明治4年の交換レート、寛永通宝銅1文=新1厘、銅4文=新2厘では4文銭の価値が半減すると、伊豆下田で大騒ぎとなりました。それではと、下田に限り4厘で通用させることにして、その印として「下」「タ」の極印を打ち付けたものです。
なぜ下田だけ? などと疑問が残らないわけではありません。
ただの極印だけなので、後世の贋作も多いものです。
4.4g 28.1mm


●鋳造場所
   (地図は「白地図MapMap」を利用しました)

●分 類
  現在、寛永通宝は、古寛永・新寛永あわせて1000種類以上に分類されています。例えば「寛文期江戸亀戸銭・正字背入文短フ永」と通称されているものがありますが、それは次の様な系統譜のひとつです。
       ┌─古寛永・・・                   ┌─島屋文・・・
  寛永通宝─┴─新寛永─┬─江戸亀戸銭─────┬─寛文期────┼─正字────┬─正字本体
             ├─深川十万坪銭・・・ ├─延宝期・・・ ├─中字・・・ ├─正字背入文
             ├─佐渡相川銭・・・  ├─元禄期・・・ ├─深字・・・ └─正字背入文短フ永
             ├─京都七条銭・・・  ├─宝永期・・・ ├─細字・・・
             ├─石ノ巻銭・・・   └─元文期・・・ ├─縮字・・・
             ├─秋田銭・・・             └─退点文・・・
             ├─日光銭・・・
             ├─長崎銭・・・
             └─・・・
 次の表は、戦後に発行された主な銭譜とそこに掲載されている種類数の一覧です。
 古寛永通宝
   【泉志】増尾富房、「古寛永泉志」、穴銭堂、初版1971(435種)、改訂版1976(706種)
   【青譜】小川青宝楼、「寛永通宝銭譜」、日本古銭研究会、1972(428種)
   【入門】静岡いづみ会、「穴銭入門(古寛永銭)」、『収集』連載、1988-91(約900種)
 新寛永通宝
   【手引】小川吉儀、「新寛永銭鑑識と手引」、1957(350種) 
   【青譜】小川青宝楼、「寛永通宝銭譜」、日本古銭研究会、1972(460種) 
   【泉志】増尾富房、「新寛永泉志」、穴銭堂、1986(467種) 
   【カタログ】新寛永クラブ、「新寛永通宝カタログ」、若富士社、1987(417種※)
   【入門】静岡いづみ会、「穴銭入門寛永通宝-新寛永銭の部」、書信館出版、1992(533種) 
   【図会】「新寛永通宝図会」、ハドソン・東洋鋳造貨幣研究所、1998(736種)
  ※のみ通用銭の材質(銅と鉄)を別種としています。他は母銭が同じものを1種としています。

●コインとしての評価
  寛永通宝は、現在でも100億枚近く残っていそうです。評価もピンからキリまであります。
  多いのは100枚で1000円。
  少ないのは、現存2~3枚。市場に出ないので値段がつけられませんが、もし市場に出たとすると200万円以上でしょう。




      変な寛永通宝
      一文と一両の価値

参考文献:
  久米重平、「日本貨幣物語」、毎日新聞社、1976
  鈴木公雄、「銭の考古学」、吉川弘文館、2002
  岡田稔、「銭の歴史」、大陸書房、1971

2001.8.20 2002.8.17改訂 2005.9.25地図を追加 2005.12.25改訂