江戸の三貨
中世以来、日本の貨幣は中国(唐・宋・明など)より輸入した「渡来銭」を主体とするものでした。 金や銀は、地金を固めたものが使われていました。
徳川家康は、政権を掌中にすると、慶長6年(1601)、「金座」と「銀座」を設け、全国統一の金貨・銀貨を鋳造し始めました。
■金貨 : 江戸、京都、佐渡に「金座」を置き、小判と一分金を発行しました。 金座の支配人は後藤庄三郎です。
■銀貨 : 伏見(→後京都)、駿府(→後江戸)、大坂、長崎に「銀座」を置き、丁銀と豆板銀を発行しました。 銀座の支配人は大黒常是です。
■銭貨 : 当初、中世以来の渡来銭をそのまま使用していましたが、寛永13年に(1636)に全国各地に「銭座」を設け、「寛永通宝」を発行しました。 その後、寛文10年(1670)には、渡来銭の使用を禁止しました。
この三種類の貨幣は、「三貨」と呼ばれ、それぞれ独立した貨幣制度です。日本国内に、円とドルとユーロが混在して使われているようなものです。
●金 貨
金貨の単位は、1両=4分(ぶ)、1分=4朱を基本とするものです。
「両」は、本来、金銀や薬を量るときの重さの単位で、1両=4.4匁(16.5g)でした。
最初は重さ1両の金と等価な金貨として「一両小判」と、その1/4の「一分金」を発行しました。
5代将軍綱吉の時代になって、将軍の大浪費による幕府財政難が深刻な問題となり、勘定奉行荻原重秀の建議により、品位を下げた貨幣にすることにより、その差から得る利益(「出目」といいます)を得ることにしました。「元禄の改鋳」です。
荻原重秀は、『金の量が問題なのではない。幕府に信用さえあれば、瓦礫でも貨幣として通用する。』といったそうですが、残念ながら当時の幕府には肝心の「信用」がなく、インフレが進行しました。
このインフレを止めるべく、新井白石・徳川吉宗が元に戻します。 「正徳金銀」と「享保金銀」です。
ところが、貨幣流通量の減少と、折からの米の生産量の増大により、米価安・物価高になり、米を給料としている下級武士層などが困窮し、経済が停滞してしまいます。 吉宗は、元禄金銀以上に品位を落とした「元文金銀」で物価安定策をとらざるを得ませんでした。
その後田沼意次は、金貨の単位の銀製の貨幣「二朱銀」を発行することにより、金本位制をすすめようとしました。銀座が発行した銀製の貨幣ですが、単位は金貨の単位です。つまり”銀製の金貨”といえます。
幕末に近づくにつれ、「二分金」、「二朱金」、「一分銀」、「一朱銀」などの補助貨幣も発行されましたが、必ずしも額面と同じ価値の金・銀が含まれていませんでしたので、幕末に外国との貨幣交換でいろいろな問題を生み出しました。 (⇒
「幕末の小判流出」
をご覧ください。)
天保小判
元文一分金
文政二朱銀
嘉永一朱銀
安政一分銀
万延二朱金
●銀 貨
銀の貨幣は、重さが固定していない銀の塊でした。 大きいの(150g前後)を「丁銀」、小さいの(通常5~20g)を「豆板銀」と呼びました。 さらにもっと小さいの(1g前後)を「露銀」と呼ぶこともありました。
単位はすべて重さで量り、1貫目=1000匁、1匁=10分(ふん)です。
当初は銀品位80%の良質でしたが、金貨の品位低下とともに銀貨も品位が低下し、幕末の安政銀ではわず12.5%です。 品位は低下しても、1匁(3.75g)の重さは変わりませんでした。
金貨の単位が4進法なのに対して、銀貨は10進法なので、計算に便利なことから、大坂の商人は、通常の商取引には銀貨を利用しました。
ただし、銀貨はかさばるのと、毎回重量を量るという手間があるため、計算は銀貨の単位で行うものの、実際の授受は金貨で行うことも多くなり、銀貨の流通量はだんだん少なくなりました。
天保丁銀
(銀41匁)
元禄豆板銀
(銀3匁8分)
元文豆板銀
(銀1匁3分)
●銭 貨
貨幣
材質・額面
発行年
発行者
重さ(匁)
備考
寛永通宝
銅1文
1636-1771c
銭座(全国各地)、ほか
1.0
後に0.7匁まで軽量化
鉄1文
1739-1862c
銭座(全国各地)、ほか
0.8
銅4文
1768-1859c
銭座(全国各地)、ほか
1.3
鉄4文
1860-1870
銭座(全国各地)、諸藩、ほか
1.3
宝永通宝
銅10文
1708
(京都)
2.35
通用わずか数ヶ月
天保通宝
銅100文
1835-1870
金座、諸藩
5.5
文久永宝
銅4文
1863-1869
金座、銀座
0.9
当初は中世以来の渡来銭を使っていましたが、1636年、「寛永通宝」を発行しました。1枚が1文です。1000枚で1貫文と呼びます。
幕府は、渡来銭の回収を積極的にすすめ、数年のうちに渡来銭は市場から姿を消しました。 1670年には、寛永通宝以外の使用を禁止しました。
1739年、銅の供給量の不足を補うため鉄の1文銭が発行されました。 青木昆陽の建策と言われています。
1768年、銅の4文銭が発行され、これが意外に好評でしたが、多少インフレを引き起こしました。
さらに幕末になると、1835年に1枚で100文の「天保通宝」、1860年には鉄の4文銭なども発行されました。 これらは、幕府だけでなく、水戸・会津・薩摩などの雄藩も半ば公然と発行しました。
(⇒詳しくは、
「寛永通宝」
、
「天保通宝」
をご覧ください)
寛永通宝1文銭
4文銭
天保通宝
寛永通宝 百文差し
●三貨の交換比率
金貨、銀貨、銭貨はそれぞれ独立した貨幣体系で、それらの間の交換比率は固定ではありませんでした。
江戸初期には、幕府の定めた公定相場がありました。
○慶長14年(1609) 金1両=銀50匁=銭4000文
○元禄13年(1700) 金1両=銀60匁=銭4000文
ただし、この公定相場はあまり強制力はなく、それぞれの貨幣の品質や供給量により日々バランスが変動していました。
また、江戸後期の文化・文政ころでは、
○金1両=銀64匁、銀1匁=銭108文
の簡易相場がありました。
幕末になると、天保通宝や寛永通宝鉄四文銭の大量発行により銭が暴落し、明治新政府は明治元年(1868)に
○金1両=銭10000文
のお触れを出したこともあります。
小判50両と銀500目(匁)の包み
(貨幣博物館にて 2007.12)
●三貨の使い分け
金貨、銀貨、銭のどれを使うかについてのルールはありませんでした。 一般的には、
○金貨 主に関東地方、武士が使うことが多い、
○銀貨 主に関西地方、商人が使うことが多い
○銭貨 小額のもの、日用品の売買で使うことが多い
でしたが、金貨や銀貨で支払って、お釣りを銭で受け取ることもありました。
次は、「東海道膝栗毛」の一部で、宿屋の支払いに弥次さん、北八さんが問答するところです。
弥次「こヽはいくらだ」
女 「まだ初夜(午後7~9時ころ)前じゃさかい、
七匁
ヅツおくれんかいな」
北八「上方のお山は、直切で買うといふことだ。半分にまからねへか」
弥次「何がなし、
四百
ヅツなら泊つていこふ。それで出来ずば、御縁がねへとあきらめよふさ」
女 「よござります、おはいりなされ」
品物
金額
揚 代
2人で8匁
かちんなんば
(ねぎを入れた雑煮)
4匁
す し
2匁
御 酒
1匁8分
らうそく
5分
合 計
16匁3分
と、ひとり400文の約束で泊ったのですが、一夜明けて女がもってきた書付(⇒右の表)を見てびっくり、
弥次「〆て
十六匁三分
。コリヤとんだ話だ。雑用(ざふよう)は別にとるのか。おらア又、酒もさかなも揚代のうちかと思つた。これこれ北八、このとふりだ。」
北八「ドレドレなんだ。コリヤおめへがたア、わつちらを他国のものだとおもつて、酒代を別にとるさへあるに、ごうてきに高へもんだ。」
女 「まけのなんのと、おしやんすこおとはないわいな。そしてみな、あがりなされた後で、高いの安いのとおしやんしたてて、あかんこつちやないかいな」
弥次「ヱヽめんどうふな。それ
一分
持ていきな、はしたぐらひはまけなせへし」
江戸時代の金貨・銀貨・銭の3種類の単位が混在して使われています。
( )内は、金1両=銀64匁、銀1匁=銭108文、銭1文=30円で換算した現在での推定価値です。
最初の客引きでは、1人
銀7匁
(22,680円)でしたが、それを、
銭400文
(12,000円)に値切って宿泊したところ、一夜明けて請求書の
銀16匁3分
(52,812円)を見てびっくりし、値切ってはみたものの、結局支払ったのは、
金1分
(51,840円)でした。 (蛇足ですが、京の色街での宿泊です)
こんな風に、当時の人たちは、金・銀・銭の貨幣を器用に使い分けていました。
参考文献
「日本貨幣カタログ」、日本貨幣商協同組合
「新体系日本史12・経済流通史」、山川出版社、2002
十返舎一九作、和田萬吉校訂、「東海道膝栗毛」、岩波文庫、昭和3、原著は享和2(1802)~文化6(1809)
2006.3.26