人のねだん

人類が歴史を作って4000年になりますが、そのうちの3900年間、
人の一部は「奴隷」という階層にあり、他の階層の人によって売買されていました。
19世紀中ごろまでの人類のうち、1~2割はこの「奴隷」だったようです。


  ● 『ハンムラビ法典』 前20世紀、 『旧約聖書』 前13世紀ころ
古代メソポタミアで貨幣として使われていた銀
画像出典:Oriental Institute Museum, University of Chicago
有名な『ハンムラビ法典』では、人を殴って殺した場合の刑罰が定められていました。
罰金は、殺した相手の性別や階級によって異なっていました。

被害者が上流階級被害者が平民被害者が奴隷
被害者が男性銀30シケル銀20シケル 
被害者が女性加害者の娘を殺す銀30シケル銀20シケル
         

奴隷の値段が銀20~30シケルだったことは、『旧約聖書』にも書かれています。
■時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀20シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。(創37:28)
■牛がもし男奴隷あるいは女奴隷を突くならば、その主人に銀30シケルを支払わなければならない。(出21:32)
(旧約聖書の記述は、どちらも前13世紀ころのものと推察しています。)

(1シケルは10グラム前後。 この当時の庶民の労賃は1か月銀20シケルくらいでした。)

  ● 古代エジプト 前14世紀、前8世紀
アメンヘテプ4世(前1377-1358)時代の、奴隷の賃貸価格や売買価格を伝えるパピルスが残っています。 それによると、
    ○奴隷一人 銀48シャティ(約36.5g)~240シャティ(約182g)
でした。 また、その後の新王国末期(紀元前8世紀)では、
    ○シリア人女奴隷=銀4デペン1ケドト(約373g) ○女奴隷=銀4デベン(364g) ○男奴隷=銀2デベン(182g)
などの記録があります。

  ● 古代バビロニア 前13世紀
紀元前1225年ころ、バビロニアでグラ・シュマトという名の少女が両親によって奴隷として売られました。 その値段は金8シクルでした(1シクルはおよそ8.3gです)。 買い手のシャマシュ・エティルは、その金額を次のような財貨で支払ました。
    1頭の雌ロバ ~ 対価金2.5シクル
    4クル(1200リットル)の麦 ~ 対価金2シクル
    1着の上等の衣服と、1枚の外套 ~ 対価金1シクル
    2枚の毛布 ~ 対価金2シクル
    1枚の外套 ~ 対価金0.5シクル
古代オリエント世界では、銀で価値が示されるのが通常ですが、この頃は金で示されていたようです。

空首布
  ● 西周後期 前9世紀ころ
西周後期の金文に残されている裁判記録によると、王室の高官の(こつ)さんが、地主の(てい)さんに奴隷5人を100寽(りつ)で売却したのですが、代金を受け取っていないから奴隷を返せ、と訴えました。裁判所の判事はコツさんの友人だったので(!?)、コツさんは勝訴しました。
1寽(りつ)は約12gの銅をさすと考えられます。
右の空首布は、そのころの代表的な貨幣です。 約24gありますから、2寽になります。

  ● 新バビロニア王国 前6世紀
ネブカドネザル2世の次の王、ナボニドス王(前555年-539)は、マルドウク神殿に
    銀100タラント21ミナ(3040kg)、 金5タラント17ミナ(160kg)、 奴隷2万8500人
を献納しました。 この当時、奴隷一人は銀50ゼーケル(420g)でした。

アテネの4ドラクマ銀貨
  ● アテネ 前5世紀
全盛期のアテネでは、奴隷1人は、200~500ドラクマだったそうです。
また、奴隷にはレンタル制度があり、1日1/6ドラクマでした。
アテネの人口は20~30万人で、そのうち3分の1が奴隷でした。
(1ドラクマ=銀4.3g。 当時のアテネの庶民の年収は300ドラクマ前後。)

紀元前415年、アテネで事件を起こした在留外国人が財産を没収されました。 彼が所有していた多数の奴隷が売却されました。
     トラキアの女3人 - 220ドラクマ、165ドラクマ、135ドラクマ
     トラキアの男2人 - 170ドラクマ、115ドラクマ
     シリアの男2人 - 301ドラクマ、240ドラクマ
     イリュリアの男2人 - 161ドラクマ、121ドラクマ
     スキュタイの男 - 144ドラクマ
     コルキスの男 - 153ドラクマ
     カリアの男 - 105ドラクマ
     カリアの少年 - 174ドラクマ
     カリアの幼児 - 72ドラクマ
     メレテー人 - 151ドラクマ
 奴隷の”産地”はいろいろだったようです。

漢の五銖銅貨
  ● 漢  前1世紀
紀元前1世紀、司馬遷の『史記貨殖列伝』の商品一覧には、
    ○穀物・果物・野菜 1鐘1000銭 (124リットル、約3ケ月分の主食)
    ○馬 1頭5000銭  
    ○牛 1頭2000銭  
    ○羊・豚 1匹500銭
    ○奴隷  1人10000銭
のような数字が並んでいます。 1銭は、「五銖銭」1枚のことです。 10000銭というのは、庶民の年収くらいでしょうか。

ローマのデナリウス銀貨
  ● ローマ帝国 紀元1世紀
紀元1年の奴隷の値段として、
    ○普通の奴隷   500~1500デナリウス
    ○葡萄園の熟練者   2000デナリウス
    ○きれいな女性 2000~6000デナリウス
    ○歌の上手な女性   4000デナリウス
という記録があります。
このころのローマ帝国の人口は5400万人で、そのうち3分の1が奴隷だった(半分以上と見積もる人もいます)そうです。
(1デナリウス=銀3.9g。 当時のローマの庶民の年収は、500~1000デナリウス。)

  ● アイルランド 2世紀
古代アイルランドの最大の貨幣単位は、「kumal」でした。 これは女性の奴隷一人の価値を表していました。
1kumalでは、雌牛を3頭買うことができました。

  ● 西域 2~3世紀
イギリスの探検家スタインたちが西域で発見したカロシュティー文字で書かれた木簡には、人(奴隷)の売買の記録がたくさんあります。
性別・年齢・容姿にもよりますが、人一人は
   ○ラクダ1頭  ○ラクダ1頭+馬1頭  ○ラクダ1頭+羊4匹  ○ラクダ2頭  ○ラクダ2頭+カーペット2束
   ○羊12匹  ○絹41巻  ○カーペット8尋
などいろいろな値段だったそうです。

ササン朝ペルシャのドラフム銀貨

  ● ササン朝ペルシャ 5~6世紀
ササン朝ペルシャでは、ドラフム銀貨が盛んに発行されていました。
    ○羊 10~12ドラフム  ○牛 50~120ドラフム  ○奴隷 500ドラフム
(当時のペルシャの庶民の年間生活費は、数百ドラフム。)


  ● 東ローマ帝国 6世紀
東ローマ帝国のソリダス金貨
ユスティニアヌス大帝が編纂した『ローマ法大全』では、資産を評価する基準が決められています。
資産の中で、奴隷は大きな部分を占めていました。
    ○10才以下の子供    金貨10枚
    ○手に職のない男女    金貨20枚
    ○手に職のある男女  最高金貨30枚
    ○速記者         金貨50枚
    ○医師、産婆       金貨60枚
(当時の東ローマの庶民の年間生活費は、金貨20枚くらい。)

  ● 西域(高昌) 7世紀
高昌の奴隷売買契約文書
    ・日時 (高昌国の)延寿16年、12番目の月、27日 (西暦639年)
    ・売主  サマルカンド出身のソグド人の商人 カクシュヴィルト
    ・買主  漢人の僧侶、チャンヤンシャン(張延相?)
    ・物件  トルキスタン生まれの女奴隷、オパチ
    ・価格  ササン朝ペルシャのドラクマ銀貨120枚

  ● 唐 7~8世紀
開元通宝
唐の最盛期
    ○ 普通の奴隷  銭10~20貫文
    ○ 高級奴隷   最高銭数百貫文
    ○ 普通の馬   銭 4~ 9貫文
    ○ 名馬     銭30~100貫文
(当時の唐の都市労働者の1日の賃金はおよそ50文、1年間で15貫文くらい。)


  ● 日本・奈良時代 8世紀
【事例1】
天平18年(746)、「近江国司解.中進上買賤事」によると、
古代米 およそ1/60束
    ○奴 39歳車匠 稲1400束
    ○奴 25歳  稲1000束
    ○奴 20歳  稲1000束
    ○奴 11歳  稲600束
    ○婢 25歳  稲1000束
で売買されています。 奴は男、婢は女です。 このころ、牛は稲500~600束、馬は稲800~1000束だったそうです。
なお、稲1束=穀(もみがら)1斗=米5升(=現在の2升)で、当時米1石=和同開珎500文でしたので、稲1000束は銭25貫文になります。
(当時の都の下級役人の年収は、およそ銭8貫文=稲300束くらい。)

和同開珎
【事例2】
天平20年(748)、東大寺は
    ○婢黒女(33歳)、婢積女(8歳)、婢真積女(5歳)、奴積麻呂(4歳)
の4人を20貫文で購入しています。 母と幼い子達のようです。
この頃の日本の人口は560万人で、そのうち1割くらいが奴婢だったそうです。

  ● 高麗  10世紀
朝鮮の高麗王朝が986年に奴婢の公定価格(最高価格)を定めました。 このときの通貨は麻の布で、縦糸400本で長さ35尺のものが1反、2反で1疋でした。
    ○奴(男) 15歳以下50疋、16~60歳100疋、61歳以上50疋
    ○婢(女) 15歳以下50疋、16~50歳120疋、51歳以上60疋
高麗の人口は210万人で、そのうち1割が奴婢だったそうです。

イスラームのディーナール金貨
  ● 十字軍の時代 12世紀
1187年、十字軍が占領していたエルサレムを、サラディン率いるイスラームの大軍が取り囲みました。 当時エルサレムには、1万5千人のキリスト教徒がいましたが、勝ち目は全くありませんでした。 彼らはサラディンと交渉し、自分たちの身代金を払うことで、安全にエルサレムを去りました。 その金額は、
    ○男 10ディーナール
    ○女  5ディーナール
    ○子供 1ディーナール
でした。
(当時のイスラム世界の庶民の年間生活費は、数十ディーナール。)

  ● イブン・バットゥータ 14世紀
■小アジア西海岸の小さな町にて ~ 私は、この町で40ディーナールの金貨を支払って、処女のルーム(小アジア地方)の女奴隷を買った。
■インドのベンガルにて ~ 素敵な女奴隷が金貨1枚で売られているのも見た。 私は実際に、ほぼこの値段でアーシューラという名の女奴隷を買ったが、誠にうっとりさせるほどの美人であった。
■西アフリカの内陸部の町にて ~ この町に入ると、早速、私は教養のある女奴隷を一人購入したいと思っていたが、うまく見つけることができなかった。その町の法官が彼の仲間の一人が所有する女奴隷を私のもとに送ってくれたので、私はそれを25ミスカール金で買った。
(当時のイスラム世界の庶民の年間生活費は、金貨数十枚。)

Sale of a Slave Girl in Rome

1884

Jean-Léon Gérôme

ヴェネチアのドゥカート金貨
  ● ヨーロッパ 14世紀
14世紀後半、イタリアの商人ダティーニさんが購入した奴隷:
   ○タタール人の少年アントネット 47 フィオリーノ
   ○10または12歳の少女    50 ドゥカート(+物品税5ドゥカート)
   ○大人の女バルトロメア     47 フィオリーノ
   ○大人の女ジョヴァンナ     60 フィオリーノ
フィオリーノはフィレンツの金貨、ドゥカートはヴェネチアの金貨で共に3.53gの純金。 このころの女中さんの給料は年10~12フィオリーノだったので、奴隷を買っても5~6年で元がとれたらしいです。
このころの奴隷にはスラブ人が多く、スラブ(Slav)は奴隷(Slave)の語源になっています。

カカオ豆
  ● アステカ帝国 16世紀
1520年ころ、アステカ帝国を訪れたスペイン人の記録によると、この国ではカカオ豆(長さ20~30cm)が貨幣として使用され、
   ○かぼちゃ カカオ豆4粒  ○うさぎ カカオ豆10粒  ○奴隷 カカオ豆100粒
また別の記録では、
   ○七面鳥の卵 カカオ豆3粒  ○小型のうさぎ カカオ豆30粒  ○奴隷 カカオ豆500~700粒
だったそうです。

渡来銭 100文
  ● 戦国時代の「乱取り」 16世紀
日本の戦国時代、戦国大名が他国に侵略したとき、その地の人を拉致し、売り飛ばすことがありました。 これを「乱取り」といいました。
■天文15年(1546)、信濃へ攻め入った武田信玄は、乱取りした人を甲斐へ連れ帰りましたが、縁故者から身請け金があれば解放しました  その対価は銭2~10貫文だったそうです。
■永禄9年(1566)、関東へ攻め入った上杉謙信は、常陸で乱取りし、1人20~30銭(文)で売りました。
■天正14年(1586)、島津義久は豊後に攻め入り、捕虜を肥後に連れ帰りました。 捕虜たちは後に南蛮人に売られました。 この対価をルイスフロイスの「日本史」の日本語訳本では、「二束三文」と訳していますが、原文では "dous, tres tostões" で、およそ銭200~300文に相当します。

状況によって値段が大きく変動しています。 日本では、人の値段の「相場」というものはなかったようです。
(お米1斗の値段、大工さんの1日の賃金が、ともに100文くらいだった時代です。)
■天正15年(1587)、豊臣秀吉は、南蛮人による日本人の売買を禁止しました。
■天正18年(1590)、小田原征伐に参加した徳川家康は、乱取りしてはならないとのお触れを出しました。

  ● 奴隷貿易 17~18世紀
17~19世紀、大西洋上で、奴隷を商品とした三角貿易が盛んでした。
    [ヨーロッパ] ⇒ 銃・綿織物 ⇒ [西アフリカ] ⇒ 奴隷 ⇒ [西インド・北米] ⇒ 砂糖・タバコ・コーヒー ⇒ [ヨーロッパ]
という構図で、18世紀が最も盛んでした。
1681年、イギリスの商社員の報告書による奴隷1人と等価な商品:
    ○棒鉄12本  ○宝貝25Kg(約1万個) ○真鍮の鍋40個  ○長布1枚  ○マスケット銃6.5丁
    (この当時、肉体労働者の1日の賃金は、宝貝120個)
1721年、イギリス人の記録による女奴隷1人と等価な商品:
    ○かんな10個+やかん7個+さらさ3枚+ハンカチ布1枚  ○金ののべ棒50本(1本は約2グラム)
1772年、フランス船ダオメ号が報告した女奴隷1人と等価な商品:
    ○ブランデー3樽+宝貝56Kg(約2万個)+ハンカチ布2枚+木綿織物8枚  ○金8オンス(240グラム)

右のグラフは、17~18世紀の奴隷のねだんです。
(1ポンド=銀120g。 当時のイギリスの庶民の年収は30~60ポンド。)

19世紀中頃まで続いた奴隷貿易で、アフリカから連れてゆかれた奴隷はおよそ1200万人といわれています。

  ● キューバ 18世紀
18世紀末のキューバの新聞の広告です:
1795年1月18日
    「売る! 17才黒人の良い洗濯女、無垢、250ペソで、サバナ6番街」
    「黒人と白人の混血、大体30才位、手くせは悪くない、黒人と交換可。牝ロバ・馬・あるいは荷車。ドン・ファン・リンコン、雑貨商まで知らせ請う。」
スペインの切銀
(1ペソに相当)
1800年 8月17日
    「半分位スペイン語の話せる黒人、200ペソで」
    「スペイン語が話せ、総べてのことに有能な黒人、健康で□の傷を持っている。250ペソ」
    「2匹のロバと正常な値段で、サン・フランシスコ、パウラ街12番地」
    「他の土着民と白人との混血、18才の容貌が良い洗濯の上手な女、コックもできる、健康で傷なし、 500ペソで、サン・フランシスコ、イグナシオ街36番地」
(1ペソ=銀27g。 なお、サン・フランシスコは、キューバにあった都市のようです)

  ● アメリカ 19世紀
1808年、アメリカは奴隷貿易を禁止しました。 (密貿易は続いていました)
1850年代、アメリカ南部では、綿花の需要激増の影響を受け、奴隷の値段も高騰しました。
1850年代初頭では1200ドルだったのが、50年代終期には2000ドルにまでなっていました。
     このころ、南部諸州の人口は960万人、そのうち奴隷は320万人でした。
1860年、最後の奴隷密貿易船が、110人の奴隷を運んだ後、発覚を恐れて破壊されました。
1861~65年、アメリカ南北戦争。 1863年、リンカーン、奴隷解放宣言。
(1ドル=銀26.73g。 当時のアメリカの庶民の年収は、200~400ドル。)

兌換券100円
昭和5~18年発行
  ● 日本 20世紀
昭和初年の農村を襲った恐慌で、東北地方を中心に身売りをする婦女子が多く出ました。
  六百円の金に代へられ教へ子はつひにゆきけり恐ろしの世や [丸野不二男] (「昭和萬葉集」より)
昭和3年(1928)の作です。
(当時の日本の都市部の勤労者の平均的な年収は、およそ1000円。)


  ● 世界人権宣言 (UNIVERSAL DECLARATION OF HUMAN RIGHTS) 1948年
   第4条  何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。
   Article 4.  No one shall be held in slavery or servitude: slavery and the slave trade shall be prohibited in all their forms
世界人権宣言10年記念切手

1958年


 ポンペイウスの戦利品
  紀元前67年、ローマの将軍ポンペイウスは地中海にはびこる海賊を一掃し、65年から63年にかけて、小アジアでローマに背いたミトリダテスを破るなど、小アジア・西アジア一帯をローマ領とするとともに、莫大な戦利品を得ました。
  獲得した奴隷は、健康な成人男子だけで200万人。 イタリア半島の人口が600万人の時代です。 あまりにも供給が多すぎ奴隷の価格が暴落し、1人4ドラクマにまで下がったそうです。(1ドラクマと1デナリウスはほぼ等価)
 『山椒大夫』
  宮崎が舟は廻り廻つて、丹後の由良の港に來た。 ここには石浦といふ處に大きい邸を構へて、田畑に米麥を植ゑさせ、山ではかりをさせ、海ではすなどりをさせ、蠶飼こがひをさせ、機織はたおりをさせ、金物、陶物すゑもの、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫さんせうだいふ と云ふ分限者がゐて、人なら幾らでも買ふ。 宮崎はこれまでも、餘所よそに買い手のないしろものがあると、山椒大夫が所へ持つて來ることになってゐた。
  港に出張つてゐた大夫の奴頭やつこがしら は、安壽、厨子王をすぐに七貫文に買つた。
  「やれやれ、餓鬼共がきども を片附けて身が輕うなつた」と云つて、宮崎の三郎は受け取つた錢を懐に入れた。 そして波止場の酒店さけみせ に這入つた。


参考文献 :
  「奴隷制度史研究についての基礎知識」
  「いすとワールド」 アカデミア日本史.律令制度
  「黒人奴隷バーロ[キューバ初等科教科書]より」
  「ドナドナ研究室ファイル リパブリック讃歌 歴史編」
  国立歴史民族博物館編、「お金の不思議」、山川出版社、1998
  日本オリエント学会、「古代オリエント事典」、岩波書店、2004
  藤井一二、「和同開珎」、中公新書、1991
  イオス・オリーゴ著、篠田綾子訳、「プラートの商人.中世イタリアの日常生活」、白水社、1997
  増田義郎、「略奪の海カリブ」、岩波新書
  カール・ポランニー著、栗本慎一郎ら訳、「経済と文明」、ちくま学芸文庫、2004
  「西洋中世史料集」、東京大学出版会、2000
  森安孝夫、「興亡の世界史05.シルクロードと唐帝国」、講談社、2007
  「アメリカ歴史統計」、原書房、1986
  和田廣、「史料が語るビザンツ世界」、山川出版社、2006
  塩野七生、「十字軍物語」、新潮社、2011
  歴史学研究会編、「世界史史料 1 古代のオリエントと地中海世界」、岩波書店、2012
  ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子、「大航海時代の日本人奴隷」、中央公論新社、2021
以下は私のホームページです:
  「古代アテネの市民生活」
  「司馬遷の時代」
  「ローマ人の買い物」
  「シルクロードのコイン」
  「朝鮮の貨幣」
  「バットゥータの大旅行」
2004.7.10  その後しばしば改訂