「渡来銭」 と 「鐚 銭」

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   そ の 1

  和同開珎に始まった皇朝銭は不人気のうちに、10世紀半ば物品貨幣の時代に戻りました。
  しかし、平安末期から産業の専門化、経済の広域化とともに、再び便利な「銭」を使うことが多くなりました。
  鎌倉初期には、まだ「米」で取引することが多かった土地も、中期以降では「銭」で取引することが多くなりました。

  この「銭」は、主に中国より輸入したもので「渡来銭」と言われています。
  唐、北宋、南宋、明などで鋳造されたものが輸入されました。たった1隻で800万枚も積んでいた貿易船がありました(余り積みすぎていたせいか、難破してしまいました)。
  輸入量の不足を補うため、日本国内でも、渡来銭をまねた銭が鋳造されました。「鐚銭」とか「私鋳銭」と呼ばれています。「鐚銭」とは言っても、決してできが悪いことを意味しているわけではありません。また、「私鋳銭」とは言っても、ニセガネではありません。銭の製造そのもが産業の一つだったのです。

参考文献:
  鈴木公雄、「出土銭貨からみた中・近世移行期の鋳貨動態」、『金融研究』17巻3号、1998

海より引き上げられた渡来銭

   そ の 2

  このころ流通した貨幣を紹介します。
  14世紀までは唐・北宋銭が、15世紀からは明銭が多く渡来しました。
  日本で鋳造された銭には何種類かありますが、銭に含まれる鉛を抽出して鉛同位体比分析を行い、次のように整理した研究があります。
   ・第1期(14世紀) 島銭など、中国産の鉛を使用
   ・第2期(15世紀) 鋳写し鐚など、中国産と日本産の鉛を混用
   ・第3期(16~17世紀初め) 加刀鐚・改造鐚など、日本産鉛主体


(1) 「渡来銭」   唐・宋・明などで作られた銭をそのまま輸入したものです。
宋銭・皇宋通宝。1039年~

渡来銭の中で、最も銭名の多いのがこの皇宋通宝です。
12~14世紀の貿易相手だった南宋や元では、唐や北宋の銭が過小評価されており、日本に大量に輸出されました。
3.5g 24.7mm
明銭・永楽通宝。1408年~

この永楽通宝は、明国内の通用貨幣としてではなく、輸出専用に作成されたという説もあります。
日本では、不思議なことに西日本では嫌われ、東日本では良貨の代表とされました。
文明17年(1485)の大内氏の禁制では、嫌がらずに100枚のうち20~30枚は永楽銭を使えといっています。
北条氏の領内の武蔵国下石原で出土した備蓄銭は10027枚ありましたが、75%の7560枚が永楽通宝でした。
3.5g 24.9mm


(2) 「島 銭」   見様見真似で作ったものです。 文字が大きく崩れているのが特徴です。
島銭 太平通宝

北宋・太平通宝を元にしたのでしょうが、「寶」の字が大きく崩れ、「感」とさえ読めます。
2.3g 23.8mm
島銭 不能読

全く文字になっていません。
2.6g 23.4mm


(3) 「鋳写し鐚銭」   渡来銭を型にして、日本で鋳写したものです。 渡来銭より少し小さくなり、柔らかい感じの銅質が特徴です。
元豊通宝 加治木濶縁小字

北宋の元豊通宝を元に作成したものですが、本銭に負けないくらい立派な出来栄えです。
九州の加治木地方で鋳造されたものとされています。
3.1g 23.1mm
永楽通宝の鋳写鐚

鋳写しを行うと、元の銭より小さくなります。 さらにそれを元に鋳写しを行うと、さらに小さくなります。 繰り返すうちにだんだん小さくなります。
逆に穴は大きくなり、軽量になります。 ここまでくると”悪い銭”といわれてもしかたありません。
銅質などから、東北・関東地方で鋳造されたものとされています。
1.6g 21.3mm


(4) 「加刀鐚銭」   渡来銭をそのまま型にするのではなく、少し刀で手を加えて、作成したものです
「綿政和」

北宋の政和通宝を元にしていますが、「通」が「綿」に見えることから、「綿政和」と呼ばれています。
2.4g 23.7mm
「順平治平」

これも北宋の治平元宝を元にしていますが、「治」が「順」に見えることから、「順平治平」と呼ばれています。
2.2g 23.7mm


(5) 「改造鐚銭」   新規に日本で型を作成した鐚銭です
「円貝宝元豊」

「宝」字の特色から「円貝宝元豊」と呼ばれています。
2.3g 23.4mm
加治木洪武 土洪武

背に「加治木」の「治」の字があり、九州加治木で作成された、鋳造場所が確定している唯一の鐚銭群です。 「武」の下部が「土」に見えることから、「土洪武」といわれています。
3.1g 23.4mm


参考文献:
  斎藤努他、「中世~近世初期の模鋳銭に関する理化学的研究」、『金融研究』17巻3号、1998

   そ の 3

  渡来銭500年の歴史です。  は、特に盛んに渡来した時期を表しています。

世紀日 本中 国
10世紀 958 朝廷、「乾元大宝」を発行(最後の皇朝銭)。
986 ”一切世俗銭を用いず”(「本朝世紀」)の状態となる。
11世紀 ● 日本の貨幣は、「米」または「布」の時代。
1039 宋、「皇宋通宝」を発行。
  (渡来銭の中では最大量の宋銭)
1080 この頃宋銭の発行高の最盛期、
   年間500万貫(50億枚)。
12世紀
1150ころより渡来銭が使用されるようになる(1150 土地売券に、150年ぶりに銭が再登場)。
1170代 平清盛、宋との貿易を行う。
1179 民衆の間にも銭が浸透(「銭の病」)
○ 銭が一般に使われ始め、これまでの貨幣だった米・布の価値が下落し、貴族の経済力が低下。
 そのため、
1179 朝廷、宋銭の使用を禁止、1193にも再度禁止するが、効力なし。
1127 宋の南遷。


1199 南宋、銅銭不足となり、
  日本への銅銭輸出を禁止する。
13世紀 1210代 宋銭の輸入拡大。
1226 鎌倉幕府、准布に代わって銅銭を使用する令を出す。
1230 朝廷、米1石=銭1貫の沽価法を出す。
1240代 南宋との密貿易盛ん(1242 西園寺公経、10万貫を輸入)。
1252 鎌倉大仏造営始まる。
  素材には渡来銭が使われた可能性がある。(121トン=3.2万貫)
1262 幕府、沽値法・利子法を定める。

1270代 元から銭が大量に流入。
1270代 米など収穫物で納めていた年貢が、銭に代わるようになる(「代銭納化」)。
○ 銭の備蓄(大量の銭を甕などに入れて土中に埋める)が始まる。
○ 商品経済が発達し、定期市が増加する。
1297 永仁の徳政令。




1274 元、日本を攻める(文永の役)。
1277 元、銅銭の国内使用を禁止したため、
  日本、ベトナムなどに大量に流出。
1279 南宋滅亡。
1281 元、日本を攻める(弘安の役)。
14世紀 1300~30ころ 「銭貴」(銭不足で銭価高騰)。
○ 割符(さいふ。銭10貫文の定額為替手形)・質屋・無尽銭などが発達。
○ このころから、日本でも渡来銭をまねた銭を鋳造(島銭、鋳写鐚銭)。
○ 悪銭が増えたため、「撰銭」が行われるようになる。
1323 京の東福寺、8000貫の銭を輸入しようとしたが、朝鮮沖新安海で沈没。
1342 足利尊氏、天龍寺船を元に派遣。

1390代 倭寇により、宋銭大量に流入。
○ 鎌倉今小路西遺跡、多量の銭の鋳型片、14世紀末~15世紀初頭。
○ このころ、函館志海苔の埋蔵銭、国内最大の307,449枚。
○ 島銭の鋳造は14世紀で止む。

1368 明建国。
15世紀
鋳写鐚銭(クリックすると画像拡大)
1404 勘合貿易始まる。明銭を輸入し始める。
1411~32 明と一時国交断絶。
1429 来日した朝鮮の使節、日本で銭が盛んに使われていることに驚く。


1460代 明銭多く輸入。
1475 足利義政、明より銭5万貫を得る。
○ 明銭は、多く輸入されたものの、なぜか宋銭より低く評価され、嫌われる。
1480 讃岐国志度の埋蔵銭(埋蔵時期を書いた木簡も出土)。
○ この頃より、西日本を中心に悪銭が多くなる。
1485 山口の大内氏、「撰銭令」を出す(明銭も嫌がらずに使え、との令)。
1496 日野富子没、銭7万貫の遺産を残す。
1500 室町幕府初の撰銭令を出す。この後、1513まで毎年のように出す。
1408 明、「永楽通宝」を発行。

1434 明、「宣徳通宝」を発行。
  (最後の渡来銭)
1454ころ 琉球で「大世通宝」を発行。

○ 中国東南の沿岸部で盛んに私鋳銭が作られ、
  「撰銭」が行われるようになる。
16世紀 1533 大内氏、石見銀山にて灰吹き法を開発。
1542 京の興福寺、宋銭と明銭を対等に評価。これ以降、永楽銭の評価が高くなる。
1553~66 「嘉靖の大倭寇」、中国の私鋳銭を日本にもたらす。
1565 伊勢大湊にて、”永楽銭1枚=ひた7枚”と決める。この「ひた」が「ビタ=鐚」の初出。
1566 倭寇が制圧されたため、銭の流入が減少。「貫高制」から「石高制」に移行。
○ このころ、明からの渡来銭の流入が止まる。 代わって、安南から少し流入。
○ 日本での銭の製造が盛んになる(加刀鐚銭、改造鐚銭)。
  島津氏、大隈の加治木で「洪武通宝」などを鋳造。
○ 銭の備蓄の習慣が少なくなる。
1567 武田信玄、甲州金を鋳造する。
1569 小田原の北条氏、永楽通宝1枚=精銭(宋銭)3枚と定める。
○ 北条氏、織田氏、徳川氏など、「永楽通宝」を高く評価する。
  武蔵国下石原の埋蔵銭では、10,027枚のうち、7,560枚が永楽通宝。
1569 織田信長、堺に銭2万貫の矢銭を要求する。
1569 織田信長の撰銭令。 精銭を1文とし、
  ころ、せんとく、やけ銭 は2枚で1文
  えみょう、おほかけ、われ、すり は5枚で1文
  うちひらめ、なんきん は10枚で1文。
1585~1610ころ 西日本を中心に、「米遣い」から「銀遣い」に変化。
1588 豊臣秀吉、「天正大判」を発行。
○ 金・銀が貨幣の主流となり、「銭」は補助貨幣となる。
1503 明、「弘治通宝」を発行
  (ほとんど渡来していない)


1566 明、倭寇を制圧する。
1570代 アメリカ大陸より銀の流入が盛んになる。
  銀の流通が盛んになり、銭の流通が減る。






17世紀 1601 徳川氏、「金座」・「銀座」を設ける。
1608 江戸幕府、金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=鐚銭4貫文と定める。
1636 幕府、「寛永通宝」を発行。1658までの発行枚数は、275万貫。
1640代 幕府、渡来銭の回収をすすめる。
1643 幕府、私鋳銭を禁止する。14世紀から行われていた民間での銭の鋳造が終る。
1670 幕府、新銭(寛永通宝)と古銭(その他の銭)を混合して使うことを禁止する。
  (この頃、古銭は新銭の約半分の価値で使われていたらしい。)
1682 幕府、寛永通宝以外の銅銭の使用を禁止する。
  (渡来銭は既に市場からは姿を消していたため、形式的なものに近かった。)
  渡来銭の通貨としての役割、完全に終了。
1616 後金(後の清)建国。

1662 明、全く滅ぶ。

  何枚くらい渡来した?
  さて、何枚くらいの銭が渡来したのか。 どんな文献にも、その数字はない。 以下は、愚考。
■考察(1)
  ・北宋での鋳銭高は、総額およそ2億貫(3億貫との説もある)。すべてを1文銭とすると、2000億枚。
  ・北宋の人口1億人超、室町末期の日本の人口1800万人。
  ・北宋銭のうち、1割が日本に輸入されたとしても不思議ではない。
  ・渡来銭中の北宋銭の割合は、80%。
 などなどから、200億枚くらいと推測。
■考察(2)
  ・1242年、西園寺公経は1億枚を輸入。
  ・1323年、800万枚積んでいた船が朝鮮沖で沈没。
 400年間、毎年5000万枚輸入すると、200億枚となる。
■考察(3)
  ・1640年代、江戸幕府は数年のうちに、すべての渡来銭を寛永通宝で置き換えてしまった。
  ・そのときまでの寛永通宝の発行高は、27.5億枚。
  200億枚と、27.5億枚では大きな開きがあるが、渡来銭の時代は銭のみが貨幣だったのに対し、江戸時代では金・銀貨が主力貨幣で、銭は補助貨幣になっていた。
  ・1695年での貨幣流通高の中で、銭の占める割合は8%。
■まとめ
 200億枚という数字は、さほど遠い数字ではあるまい・・・当時の人口1人あたり1000枚である。
 なお、鐚銭・島銭は、現存量から推定して、渡来銭の1割くらいか?

 
参考文献:
  桜井栄治他、「新体系日本史12.流通経済史」、山川出版社、2002
  鈴木公雄、「銭の考古学」、吉川弘文館、2002
  出土銭貨研究会、「出土銭貨」第14号、2000.10
  東北中世考古学会編、「中世の出土模鋳銭」、高志書院、2001
  日本貨幣商協同組合、「日本の貨幣-収集の手引き-」、1998



      鐚銭
      島銭
      永楽通宝の謎
      中世の物価


2001.8.20 2001.12.8改訂  2006.10.7 地図を追加  2006.11.14 その3を追加  2007.3.11 「何枚くらい渡来した?」を追加  2008.6.21 改訂