世紀 | 日 本 | 中 国 |
10世紀
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958 朝廷、「乾元大宝」を発行(最後の皇朝銭)。
986 ”一切世俗銭を用いず”(「本朝世紀」)の状態となる。
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11世紀
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● 日本の貨幣は、「米」または「布」の時代。
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1039 宋、「皇宋通宝」を発行。
(渡来銭の中では最大量の宋銭)
1080 この頃宋銭の発行高の最盛期、
年間500万貫(50億枚)。
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12世紀
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1150ころより渡来銭が使用されるようになる(1150 土地売券に、150年ぶりに銭が再登場)。
1170代 平清盛、南宋との貿易を行い、宋銭を輸入する。
1179 民衆の間にも銭が浸透し、当時流行した麻疹が「銭の病」と呼ばれた。
○ 銭が一般に使われ始め、これまでの貨幣だった米・布の価値が下落し、貴族の経済力が低下。
そのため、
1179 朝廷、宋銭の使用を禁止、1193にも再度禁止するが、効力なし。
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1127 宋の南遷。
1199 南宋、銅銭不足となり、
日本への銅銭輸出を禁止する。
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13世紀
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○代銭納(荘園などの年貢を、米や絹でなく、銭で納める)が広まる、
1210代 金(宋を南に追いやった国)が銭の使用を禁止したため、宋銭の輸入が拡大。
1226 鎌倉幕府、准布に代わって銅銭を使用する令を出す。
1230 朝廷、米1石=銭1貫の沽価法を出す。
1240代 南宋との密貿易盛ん(1242 西園寺公経、10万貫を輸入)。
1252 鎌倉大仏造営始まる。
素材には渡来銭が使われた可能性がある。(121トン=3.2万貫)
1262 幕府、沽値法・利子法を定める。
1270代 元から銭が大量に流入。
1270代 米など収穫物で納めていた年貢が、銭に代わるようになる(「代銭納化」)。
○ 銭の備蓄(大量の銭を甕などに入れて土中に埋める)が始まる。
○ 商品経済が発達し、定期市が増加する。
1297 永仁の徳政令。
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1274 元、日本を攻める(文永の役)。
1277 元、銅銭の国内使用を禁止したため、
日本、ベトナムなどに大量に流出。
1279 南宋滅亡。
1281 元、日本を攻める(弘安の役)。
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14世紀
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1300~30ころ 「銭貴」(銭不足で銭価高騰)。
○ 割符(さいふ。銭10貫文の定額為替手形)・質屋・無尽銭などが発達。
○ このころから、日本でも渡来銭をまねた銭を鋳造(島銭、鋳写鐚銭)。
○ 悪銭が増えたため、「撰銭」が行われるようになる。
1323 京の東福寺、8000貫の銭を輸入しようとしたが、朝鮮沖新安海で沈没。
1342 足利尊氏、天龍寺船を元に派遣。
1390代 倭寇により、宋銭大量に流入。
○ 鎌倉今小路西遺跡、多量の銭の鋳型片、14世紀末~15世紀初頭。
○ このころ、函館志海苔の埋蔵銭、国内最大の307,449枚。
○ 島銭の鋳造は14世紀で止む。
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1368 明建国。
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15世紀
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1404 勘合貿易始まる。明銭を輸入し始める。
1411~32 明と一時国交断絶。
1429 来日した朝鮮の使節、日本で銭が盛んに使われていることに驚く。
1460代 明銭多く輸入。
1475 足利義政、明より銭5万貫を得る。
○ 明銭は、多く輸入されたものの、なぜか宋銭より低く評価され、嫌われる。
1480 讃岐国志度の埋蔵銭(埋蔵時期を書いた木簡も出土)。
○ この頃より、西日本を中心に悪銭が多くなる。
1485 山口の大内氏、「撰銭令」を出す(明銭も嫌がらずに使え、との令)。
1496 日野富子没、銭7万貫の遺産を残す。
1500 室町幕府初の撰銭令を出す。この後、1513まで毎年のように出す。
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1408 明、「永楽通宝」を発行。
1434 明、「宣徳通宝」を発行。
(最後の渡来銭)
1454ころ 琉球で「大世通宝」を発行。
○ 中国東南の沿岸部で盛んに私鋳銭が作られ、
「撰銭」が行われるようになる。
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16世紀
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1533 大内氏、石見銀山にて灰吹き法を開発。
1542 京の興福寺、宋銭と明銭を対等に評価。これ以降、永楽銭の評価が高くなる。
1553~66 「嘉靖の大倭寇」、中国の私鋳銭を日本にもたらす。
1565 伊勢大湊にて、”永楽銭1枚=ひた7枚”と決める。この「ひた」が「ビタ=鐚」の初出。
1566 倭寇が制圧されたため、銭の流入が減少。「貫高制」から「石高制」に移行。
○ このころ、明からの渡来銭の流入が止まる。 代わって、安南から少し流入。
○ 日本での銭の製造が盛んになる(加刀鐚銭、改造鐚銭)。
島津氏、大隈の加治木で「洪武通宝」などを鋳造。
○ 銭の供給が潤沢になったため、大量備蓄の習慣が少なくなる。
1567 武田信玄、甲州金を鋳造する。
1569 小田原の北条氏、永楽通宝1枚=精銭(宋銭)3枚と定める。
○ 北条氏、織田氏、徳川氏など、「永楽通宝」を高く評価する。
武蔵国下石原の埋蔵銭では、10,027枚のうち、7,560枚が永楽通宝。
1569 織田信長、堺に銭2万貫の矢銭を要求する。
1569 織田信長の撰銭令。 精銭を1文とし、
ころ、せんとく、やけ銭 は2枚で1文
えみょう、おほかけ、われ、すり は5枚で1文
うちひらめ、なんきん は10枚で1文。
1585~1610ころ 西日本を中心に、「米遣い」から「銀遣い」に変化。
1588 豊臣秀吉、「天正大判」を発行。
○ 金・銀が貨幣の主流となり、「銭」は補助貨幣となる。
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1503 明、「弘治通宝」を発行
(ほとんど渡来していない)
1566 明、倭寇を制圧する。
1570代 アメリカ大陸より銀の流入が盛んになる。
銀の流通が盛んになり、銭の流通が減る。
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17世紀
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1601 徳川氏、「金座」・「銀座」を設ける。
1608 江戸幕府、金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=鐚銭4貫文と定める。
1636 幕府、「寛永通宝」を発行。1658までの発行枚数は、275万貫。
1640代 幕府、渡来銭の回収をすすめる。
1643 幕府、私鋳銭を禁止する。14世紀から行われていた民間での銭の鋳造が終る。
1670 幕府、新銭(寛永通宝)と古銭(その他の銭)を混合して使うことを禁止する。
(この頃、古銭は新銭の約半分の価値で使われていたらしい。)
1682 幕府、寛永通宝以外の銅銭の使用を禁止する。
(渡来銭は既に市場からは姿を消していたため、形式的なものに近かった。)
渡来銭の通貨としての役割、完全に終了。
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1616 後金(後の清)建国。
1662 明、全く滅ぶ。
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