中世の銭貨

 中世、およそ500年の間に日本で流通した銭貨を紹介します。
 この時代、流通した銭貨は、円形で中央に四角の穴のあいた銅銭だけです。
 大きさは23~24ミリ、重さは2~4グラム前後でほぼ一定しています。
 1枚が1文で、日本国中に1文銭だけが流通していたのです。 しかも500年間です。
  
 このころ、戦乱や飢饉で物価が大きく変動したことはありますが、全体としてのインフレやデフレは少なく、
   ・お米1升で約10文
   ・大工さんの労賃は1日で約100文
 平成時代の物価(それぞれ600円、19000円)と比較すると、1文銭を100円玉と考えたらいかがでしょうか。 日本全国、100円玉だけが流通していたことになります。
 では、この1文銭の歴史をみてみましょう。


(1) 渡来銭(唐銭・宋銭)  12~14世紀
 和同開珎に始まった皇朝銭は不人気のうちに、10世紀半ばには完全に米や絹の物品貨幣の時代に戻りました。
 しかし、11世紀末頃から、北九州の博多を中心に、中国の銭を貨幣として使うことが始まりました。
 権力を持った大名や大商人が強制的に使わせたわけではありません。
 自然発生的に、商人たちが使い始めたのです。

 博多に着いた中国の船には、バランスを安定させるためのバラストとしてたくさんの銭が使われていました。
 博多の商人たちは、この「銭」という物を知り、仲間たちで「銭」として使ってみました。 それを見た他の商人も、その便利さに気づきました。
 あるところで、お米1升と銭10枚が等価だと知ると、別の人は塩1升を5文で売りました。 それを知った漁師さんは、鯛1尾を3文で売りました。 それを知った大工さんは、1日の仕事を100文で請け負いました。 このようにして銭の使用が流布し、その価値が定まってゆきました。

 この頃の輸入相手は、南宋(1127~1279年)です。 しかし輸入した銭は南宋の銭は少なく、既に滅亡していた唐(618~907年)や北宋(960~1126年)の銭が主体でした。

   
唐銭・開元通宝 621年~
3.3g 23.5mm
宋銭・皇宋通宝 1039年~
4.4g 24.0mm
   
宋銭・熈寧元宝 1068年~
3.2g 24.0mm
南宋銭・紹熈元宝 1190年~
3.4g 24.2mm

海より引き上げられた渡来銭
 12世紀中頃になると、銭の使用は都周辺にも広まりました。
 これに目をつけたのが平清盛でした。 彼は銭を盛んに輸入しました。
 銭の使用は、それまでの貨幣だった米や布の価値を低め、貴族階級の経済力が低下したため、朝廷はたびたび銭の使用を禁止しました。 しかし、庶民階級にまで普及した銭の使用は、やむことがありませんでした。
 1226年、鎌倉幕府は公的に銭の使用を定めました。

 銭は、豪族、大商人、大きな寺社などによって輸入されました。
 1279年に南宋が滅んだあとも、元(1271~1368年)からの輸入は続きました。
 1323年に京の東福寺は800万枚(約28トン)の銭輸入しようとしましたが、余りにも重すぎたせいか、途中の朝鮮沖で沈没してしまいました。

 下の図は、1299年に描かれた国宝『一遍上人絵伝』です。 都の商店街でしょうか。 銭で物を買おうとする人や、銭を数えている人(黄色の矢印)が描かれています。 

「一遍上人絵伝」


(2) シマ銭  14世紀
 14世紀になり、元寇などの影響により、一時貨幣の輸入がままならないときがありました。
 このようなとき、日本国内で、見よう見まねで貨幣を作ることがありました。 文字文化に慣れていない人たちが作ったらしく、文字になっていないものが多いです。 このような銭を古銭界では、「島銭(シマセン)」と名付けています。

   
不能読 島銭
2.6g 23.4mm
   
淳化元宝 切銭手島銭
2.1g 23.7mm

 シマ銭は、大陸産の銅質で、銭の大きさは23~24ミリでほぼ一定しています。
 シマ銭についてより詳しくは、『島銭』をご参照ください。

(3) 渡来銭(明銭)  15~16世紀
 元が倒れ、明(1368~1644年)が建国されると、再び銭の輸入が盛んになりました。  特に「永楽通宝」は、明が輸出専用に鋳造したともいわれ、日本に大量に輸入されました。
 しかし、これまで古い宋銭に見慣れていた日本人は、この真新しい銭にとまどい、銭として使うことを嫌がりました。
 1485年に山口の大内氏が出した、”明銭も嫌がらずに使え”、との「撰銭令」は有名です。

   
明銭・永楽通宝  1408年~
3.8g 24.5mm
   
明銭・宣徳通宝  1433年~
3.5g 23.9mm

 しかし、明銭はこれまでの銭以上に良質な銭でした。
 1542年、京の興福寺は、宋銭と明銭を対等に評価しました。 そしてこれ以降、特に東国では、逆に永楽通宝の方が高く評価されました。
 1569年、小田原の北条氏は、永楽通宝1枚=精銭(宋銭)3枚と定めました。
 織田信長が、旗印のデザインに永楽通宝を使ったことは有名です。
 永楽通宝についてより詳しくは、『永楽通宝の謎』をご参照ください。


(4) 鋳写し銭  15~16世紀
 15世紀になると日本でも銅の生産が盛んになり、渡来銭から鋳型を作り、銭を大量生産し始めました。 「鋳写し鐚銭(いうつしびたせん)」と呼ばれています。
 この頃の生産者は、鋳物を扱う人たちが副業として銭を生産していたようです。
 銭を生産するといっても、偽金作りではありません。 銭を作るということが一つの産業だったのです。

   
称九州鐚・紹聖元宝
2.9g 23.4mm
   
称東北鐚・政和通宝
2.7g 23.8mm

 日本で作られた鋳写し銭は、中国の本銭に比べて、やや小ぶりで字画が甘く、国産の銅を使ったため、柔らかそうな銅質が特徴です。
 九州で作られたと言われる「九州鐚」は、鉄分を含むため、白銅色で、微量の磁性を持つことが特徴です。
 東北で作られたと言われる「東北鐚」は、鉛分を含むため、柔らかそうな赤銅色が特徴です。


(5) 加刀鐚銭・改造鐚銭  16~17世紀前半
 16世紀後半、明からの渡来が途絶えました。
 そのため、日本での製造はますます盛んになりました。 大商人が銭を製造する専用の造幣工房を経営し始めました。
 彼らは、単純に鋳写すだけではなく、多少手を加えたり(加刀)、全く新規にデザインしたり(改造)することもありました。

   
加刀鐚・順平治平
2.2g 23.7mm
   
改造鐚・円貝宝元豊
2.3g 23.4mm

 「順平治平」は、宋の治平元宝の「治」の文字が「順」に見えることから、この名で呼ばれています。
 「円貝宝元豊」は、銭銘は宋の元豊通宝ですが、日本でデザインされた文字です。 4文字ともかなり特異な書体です。 特に宝字の貝画が円形なので、この名で呼ばれています。


(6) ブランド品  16~17世紀前半
 改造鐚銭の中に、幾つかの鋳銭工房では、独自のスタイルの銭を発行しました。
 今でいう、ブランド品でしょう。

   
加治木洪武・土洪武
3.1g 23.4mm
   
天正永楽・中正手俯貝宝
2.8g 24.6mm

 「加治木洪武」は、島津氏領内の加治木で発行された洪武通宝です。 背に「加」「治」「木」の1字があります(もっとも「加」と「木」は希少です)
 加治木銭は、日本で鋳造された銭の中で、その産地が確定している唯一の銭です。
 「天正永楽」は、秀吉の時代の製造とされ、独特の書体と独特の銭質が特徴です。


(7) 粗悪なビタ銭
 鐚銭(ビタセン)というと、粗悪な銭のイメージがありますが、この頃は、「鐚銭」は、永楽銭などに対する通常の銭のことを意味していました。
 しかし、日本で大量に生産された銭の中には、粗悪な銭もありました。

   
無文銭
1.6g 21.7mm
   
小さな永楽通宝
1.1g 20.3mm
(破線は明の本銭)

 「無文銭」は、文字がまったく読み取れません。
 「小さな永楽通宝」は、鋳写しを重ねた結果銭がだんだん小さくなったものです。 重さも標準の銭の3分の1です。
 為政者たちは、このような粗悪な銭を使用する際の一定のルールを定めた撰銭令をたびたび発しています。 詳しくは、『撰銭令』をご参照ください。


(8) 寛永通宝への道  17世紀前半
 島銭以降に培われた日本の造銭技術は、日本固有の銭貨への発行を容易にしました。
 日本の年号を冠した銭を発行する機運が高まりました。

   
慶長通宝
2.3g 23.5mm
   
寛永通宝・二水永背三
4.1g 24.2mm

 「慶長通宝」は、慶長11年(1606)に徳川幕府が発行したといわれています。
 「寛永通宝」は、寛永3年(1626)に水戸の商人が試作し、その後寛永13年(1636)より、徳川幕府が本格的に大量発行しました。
 これまで、民間で輸入・発行していた銭ですが、中央政府による発行へと変わったのです。
 徳川幕府は、これまでの銭を寛永通宝に切り替え、1682年には寛永通宝以外の銭を使用禁止としました。
 渡来銭や中世の鐚銭はこのとき、通貨としての役割を完全に終えました。




  中世の銭貨500年の歴史です。  は、特に盛んに渡来した時期を表しています。
世紀日 本中 国
10世紀 958 朝廷、「乾元大宝」を発行(最後の皇朝銭)。
986 ”一切世俗銭を用いず”(「本朝世紀」)の状態となる。
11世紀 ● 日本の貨幣は、「米」または「布」の時代。
1039 宋、「皇宋通宝」を発行。
  (渡来銭の中では最大量の宋銭)
1080 この頃宋銭の発行高の最盛期、
   年間500万貫(50億枚)。
12世紀
1150ころより渡来銭が使用されるようになる(1150 土地売券に、150年ぶりに銭が再登場)。
1170代 平清盛、南宋との貿易を行い、宋銭を輸入する。
1179 民衆の間にも銭が浸透し、当時流行した麻疹が「銭の病」と呼ばれた。
○ 銭が一般に使われ始め、これまでの貨幣だった米・布の価値が下落し、貴族の経済力が低下。
 そのため、
1179 朝廷、宋銭の使用を禁止、1193にも再度禁止するが、効力なし。
1127 宋の南遷。


1199 南宋、銅銭不足となり、
  日本への銅銭輸出を禁止する。
13世紀 ○代銭納(荘園などの年貢を、米や絹でなく、銭で納める)が広まる、
1210代 金(宋を南に追いやった国)が銭の使用を禁止したため、宋銭の輸入が拡大。
1226 鎌倉幕府、准布に代わって銅銭を使用する令を出す。
1230 朝廷、米1石=銭1貫の沽価法を出す。
1240代 南宋との密貿易盛ん(1242 西園寺公経、10万貫を輸入)。
1252 鎌倉大仏造営始まる。
  素材には渡来銭が使われた可能性がある。(121トン=3.2万貫)
1262 幕府、沽値法・利子法を定める。
1270代 元から銭が大量に流入。
1270代 米など収穫物で納めていた年貢が、銭に代わるようになる(「代銭納化」)。
○ 銭の備蓄(大量の銭を甕などに入れて土中に埋める)が始まる。
○ 商品経済が発達し、定期市が増加する。
1297 永仁の徳政令。


1274 元、日本を攻める(文永の役)。
1277 元、銅銭の国内使用を禁止したため、
  日本、ベトナムなどに大量に流出。
1279 南宋滅亡。
1281 元、日本を攻める(弘安の役)。
14世紀 1300~30ころ 「銭貴」(銭不足で銭価高騰)。
○ 割符(さいふ。銭10貫文の定額為替手形)・質屋・無尽銭などが発達。
○ このころから、日本でも渡来銭をまねた銭を鋳造(島銭、鋳写鐚銭)。
○ 悪銭が増えたため、「撰銭」が行われるようになる。
1323 京の東福寺、8000貫の銭を輸入しようとしたが、朝鮮沖新安海で沈没。
1342 足利尊氏、天龍寺船を元に派遣。

1390代 倭寇により、宋銭大量に流入。
○ 鎌倉今小路西遺跡、多量の銭の鋳型片、14世紀末~15世紀初頭。
○ このころ、函館志海苔の埋蔵銭、国内最大の307,449枚。
○ 島銭の鋳造は14世紀で止む。

1368 明建国。
15世紀 1404 勘合貿易始まる。明銭を輸入し始める。
1411~32 明と一時国交断絶。
1429 来日した朝鮮の使節、日本で銭が盛んに使われていることに驚く。

1460代 明銭多く輸入。
1475 足利義政、明より銭5万貫を得る。
○ 明銭は、多く輸入されたものの、なぜか宋銭より低く評価され、嫌われる。
1480 讃岐国志度の埋蔵銭(埋蔵時期を書いた木簡も出土)。
○ この頃より、西日本を中心に悪銭が多くなる。
1485 山口の大内氏、「撰銭令」を出す(明銭も嫌がらずに使え、との令)。
1496 日野富子没、銭7万貫の遺産を残す。
1500 室町幕府初の撰銭令を出す。この後、1513まで毎年のように出す。
1408 明、「永楽通宝」を発行。

1434 明、「宣徳通宝」を発行。
  (最後の渡来銭)
1454ころ 琉球で「大世通宝」を発行。

○ 中国東南の沿岸部で盛んに私鋳銭が作られ、
  「撰銭」が行われるようになる。
16世紀 1533 大内氏、石見銀山にて灰吹き法を開発。
1542 京の興福寺、宋銭と明銭を対等に評価。これ以降、永楽銭の評価が高くなる。
1553~66 「嘉靖の大倭寇」、中国の私鋳銭を日本にもたらす。
1565 伊勢大湊にて、”永楽銭1枚=ひた7枚”と決める。この「ひた」が「ビタ=鐚」の初出。
1566 倭寇が制圧されたため、銭の流入が減少。「貫高制」から「石高制」に移行。
○ このころ、明からの渡来銭の流入が止まる。 代わって、安南から少し流入。
○ 日本での銭の製造が盛んになる(加刀鐚銭、改造鐚銭)。
  島津氏、大隈の加治木で「洪武通宝」などを鋳造。
○ 銭の供給が潤沢になったため、大量備蓄の習慣が少なくなる。
1567 武田信玄、甲州金を鋳造する。
1569 小田原の北条氏、永楽通宝1枚=精銭(宋銭)3枚と定める。
○ 北条氏、織田氏、徳川氏など、「永楽通宝」を高く評価する。
  武蔵国下石原の埋蔵銭では、10,027枚のうち、7,560枚が永楽通宝。
1569 織田信長、堺に銭2万貫の矢銭を要求する。
1569 織田信長の撰銭令。 精銭を1文とし、
  ころ、せんとく、やけ銭 は2枚で1文
  えみょう、おほかけ、われ、すり は5枚で1文
  うちひらめ、なんきん は10枚で1文。
1585~1610ころ 西日本を中心に、「米遣い」から「銀遣い」に変化。
1588 豊臣秀吉、「天正大判」を発行。
○ 金・銀が貨幣の主流となり、「銭」は補助貨幣となる。
1503 明、「弘治通宝」を発行
  (ほとんど渡来していない)


1566 明、倭寇を制圧する。
1570代 アメリカ大陸より銀の流入が盛んになる。
  銀の流通が盛んになり、銭の流通が減る。






17世紀 1601 徳川氏、「金座」・「銀座」を設ける。
1608 江戸幕府、金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=鐚銭4貫文と定める。
1636 幕府、「寛永通宝」を発行。1658までの発行枚数は、275万貫。
1640代 幕府、渡来銭の回収をすすめる。
1643 幕府、私鋳銭を禁止する。14世紀から行われていた民間での銭の鋳造が終る。
1670 幕府、新銭(寛永通宝)と古銭(その他の銭)を混合して使うことを禁止する。
  (この頃、古銭は新銭の約半分の価値で使われていたらしい。)
1682 幕府、寛永通宝以外の銅銭の使用を禁止する。
  (渡来銭は既に市場からは姿を消していたため、形式的なものに近かった。)
  渡来銭の通貨としての役割、完全に終了。
1616 後金(後の清)建国。

1662 明、全く滅ぶ。

  何枚くらい渡来した?
 さて、何枚くらいの銭が渡来したのか。 どんな文献にも、その数字はない。 以下は、愚考。
■考察(1)
  ・北宋での鋳銭高は、総額およそ2億貫(3億貫との説もある)。すべてを1文銭とすると、2000億枚。
  ・北宋の人口1億人超、室町末期の日本の人口1800万人。
  ・北宋銭のうち、1割が日本に輸入されたとしても不思議ではない。
  ・渡来銭中の北宋銭の割合は、80%。
 などなどから、200億枚くらいと推測。
■考察(2)
  ・1242年、西園寺公経は1億枚を輸入。
  ・1323年、800万枚積んでいた船が朝鮮沖で沈没。
 400年間、毎年5000万枚輸入すると、200億枚となる。
■考察(3)
  ・1640年代、江戸幕府は数年のうちに、すべての渡来銭を寛永通宝で置き換えてしまった。
  ・そのときまでの寛永通宝の発行高は、27.5億枚。
  200億枚と、27.5億枚では大きな開きがあるが、渡来銭の時代は銭のみが貨幣だったのに対し、江戸時代では金・銀貨が主力貨幣で、銭は補助貨幣になっていた。
  ・1695年での貨幣流通高の中で、銭の占める割合は8%。
■まとめ
 200億枚という数字は、さほど遠い数字ではあるまい・・・当時の人口1人あたり1000枚である。
 なお、鐚銭・島銭は、現存量から推定して、渡来銭の1割くらいか?

 
 参考文献:
  斎藤努他、『中世~近世初期の模鋳銭に関する理化学的研究』、『金融研究』17巻3号、1998
  鈴木公雄、『出土銭貨からみた中・近世移行期の鋳貨動』、『金融研究』17巻3号、1998
  鈴木公雄、『銭の考古学』、吉川弘文館、2002
  桜井栄治他、『新体系日本史12.流通経済史』、山川出版社、2002
  出土銭貨研究会、『出土銭貨』第14号、2000.10
  東北中世考古学会編、『中世の出土模鋳銭』、高志書院、2001
  日本貨幣商協同組合、『日本の貨幣-収集の手引き-』、1998
  高木久史、『通貨の日本史』、中公新書、2016
2018.1.14   渡来銭と鐚銭  鐚銭  島銭   を統合して、新規作成。



      永楽通宝の謎
      中世の物価
      島銭(改訂版)